ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

「SLやまぐち号」撮影終わり

九州最後の夜を定宿の「かいもん5号」~「かいもん6号」で過ごしました。

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門司駅 106列車 急行「かいもん6号」 ED76 90、2522M

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貨物列車 EF30 13+EF30 7

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421列車 「ながさき」 ED76 1012

名残惜しい気持ちでしみじみシャッターを押しましたが、相変わらずの凡庸な写真であります。

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小郡駅 1022D 特急「おき2号」

最終日も楽するために津和野へ参ります。

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貨物列車 EF66 24

蒸機を撮らなければ、こういう列車やブルトレなどをどれだけ沢山撮れたことでしょう、なんてことは当時は全く考えませんでした。

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キハ181-8の車内

通路の一番後ろから車内全体を撮る勇気はなく、腰掛からこっそりと。

さて、津和野に到着し、いつもの貸自転車でいつもの場所の近くへやってきました。この日も暑くて、せっかくだから待つ間に、上半身裸になって日に焼こうかなんて考えていたら、何やら不穏な雲が天上を覆い出しました。露出はみるみる落ちてきてなんかヤベエぞ。

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船山平→津和野 9521列車 C57 1
煙よりも風景が気に入ったみたいです。薄暗く、露出不足の薄いネガを作ってしまいました。まだ雨は小降りです。

一旦、駅に戻りC57に会います。湿気があるせいか、蒸気が上がっています。
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雨の中の撮影です。でもこんなのはまだ序の口。

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540D

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青野山←津和野 1024D 特急「おき4号」

いよいよ「SLやまぐち号」最後の撮影となります。再びいつもの場所へと自転車をこいで向かいます。しかし天気が回復する兆しは見えず、それどころか雨脚が段々と強くなってきます。遂には雷鳴が轟き、とうとう土砂降りとなりました。もう下界の様子は霞んでいてよく見えません。激しい雨音で汽笛も聞こえません。少し離れた場所には車が駐車し、その中でファンが数人待機しています。こういう時、車はありがたいですなあ。逃げ場のない自分は、傘を差してじっと待つのみ。

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船山平←津和野 9522列車 C57 1
露出はないし雨は酷いし、霞んでどうしようもありません。フィナーレを飾るに何と素敵な舞台でしょう。

撮影を終えても感慨に浸る余裕などなく、速攻で撤収です。坂道を転がり降りる際、雨粒が顔面を突き刺し痛いのなんの。町中に入ると通りを歩く人の姿はなく、軒下で雨宿りする人たちの視線を感じながら駅へ向かって突っ走りました。

自転車屋では物置部屋を借りて着替えさせてもらいました。全身ズブ濡れですので全部着替えます。ちょうどパンツを履こうとした時に、それと知らぬ店のおかみさんらしき人が戸を開けて「あら、ごめんなさい」。こっちも、珍妙なものを披露してごめんなさい。
楽チンしようと津和野へ来たものの、最後は手痛いしっぺ返しのような結果になってしまいました。やはり世の中、そんな甘いもんじゃございませんな。

山口線を後にして、下関ではいつもの銭湯で汗を流すも(今度はちゃんとコインロッカーに鍵かけてます)コインランドリーがやはり見つけられず、濡れたものはそのまま家へ持ち帰ることになりました。

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下関駅 EF58 125

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36M 特急「明星2号」
 
こうして「SLやまぐち号」と、ついでの九州撮影旅行は終わりました。下関からは急行「阿蘇・くにさき」で大阪へ向かい、大阪からは日本海縦貫線経由で青森を目指しました。ちょっと寄り道をしながらも、2日間強をほとんど車中で過ごしたのでありました。

昭和54(1979)年8月23日

翌朝、大阪からはわずか8分の乗り換え時間で急行「たかやま」に乗り換え、米原へ向かいます。

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米原駅 31M 特急「加越1号」

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203M 急行「くずりゅう3号」
この列車で金沢へ向かいます。周遊券なので急行なら料金はかかりません。

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列車不明(203Mからの車窓)手書きの行先表示が泣かせます。

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福井駅 3335M?

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金沢駅 339D、309D 急行「能登路11号」
ヘッドマーク付き列車は味があっていいです。
能登路11号」で七尾線乗り鉄しました。

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西岸駅 貨物列車 DD16 9
七尾線はC56で有名でしたが、今はDD16が貨物列車を牽いています。

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穴水駅 キユニ26 15

穴水からの帰りの急行「能登路20号」では、空いた車内をいいことに、ガキんちょども走り回って騒いでおりました。あんまり喧しかったので「静かにせい!」とか何とか叱ってみたものの、全く効果なし。両親は放置状態。その家族が途中駅で降りた際、父親の顔が見えましたが、しょんぼりとした、いかにも情けなさそうな面構えでした。子供に生気を吸い取られたか?

金沢からは、深夜、急行「きたぐに」に乗車しました。山陽本線の夜行急行が14系だったのに対して「きたぐに」は12系で、ちょっとしんどかった。もっとも九州の宿はみんな12系だったけれど。

昭和54(1979)年8月24日

EF81 20が牽引していた「きたぐに」は、新潟で機関車を交換しました。

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新潟駅 501列車 急行「きたぐに
ここから秋田まではEF81 68が牽引します。当時は機関区があちらこちらにあったので、機関車のロングラン運用はあまり多くはありませんでした。

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4006M 特急「雷鳥16号」
九州の485系とは異なり、こちらは赤ヒゲ付。スカートの色もクリーム色一色です。(九州のは赤にクリーム色の帯入り)

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サシ481-82
L特急以外の特急列車では、多くが食堂車を営業していました。

秋田駅です。
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秋田駅 ED75 773
きたぐに」の機関車交換です。ホームに降りると涼しくて感激。

そしてあっという間に青森、終点です。
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青森駅 1004列車 特急「あけぼの4号」 ED75 711
電源車はカニ21ではなくカヤ21。荷物輸送はしていないようです。

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8列車 特急「ゆうづる2号」

すでに20系のブルトレは「あけぼの」だけ。14系や24系に比べるとすっかり見劣りします。
青森からは「松前丸」に乗船し函館には夜中の到着。すぐに夜行急行「すずらん5号」に乗り換えて、翌朝、無事札幌に到着したのでした。お疲れ様でした。

昭和54(1979)8月25日

最後はなげやりのような記事になってしまいましたが、実際、乗車した列車内、連絡船内ではひたすら眠りこけ、これといった事件もなく、平穏に時を過ごしたのでした。