ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

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田中泰三様提供の画像につき、転載はご遠慮ください。(リンク先の田中泰三さんとは関係がありません。)

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昭和43(1968)年10月2日 福井機関区

車歴は↓こちら。

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美しく整備された、お召し仕様のハチロクです。もはや芸術品のようです。「架線注意」のプレートが専用のステイに橋渡しされているのは、ここの機関車の特徴なのでしょうか。福井機関区のハチロク越美北線の貨物を牽引していました。

この機関車は、福井国体開会式(10月1日)の翌日、越前大野越美北線)~福井間で後補機として運用にあたりました。本務機は88635で、その画像は後日アップします。

お召列車はまだ一度もお目にかかったことがありません。特急「北斗」によるお召代行列車のようなものはそれと知らずに撮影しましたが、お召しであることを示すサインは一切なく、単なる増結「北斗」でした。因みに、上皇上皇后両陛下、天皇皇后両陛下がご乗車される列車がお召列車というわけではなく、専用の列車として運転されるものだけをお召列車と云います。

お召列車の運転は昭和天皇の時代でほぼ終了し、平成になると明仁天皇は一般の列車で行幸されることが多くなり、神々しいばかりの列車を見る機会はめっきり減りました。現在は客車の1号編成に代わり、JR東日本が所有するE655系電車がお召列車として運転されますが、所詮は電車。架線のあるところしか自走できませんので、非電化区間ではDLが牽引することになっているようです。津軽海峡線ではEH800の牽引になるでしょうが、もうお召列車で渡道されることはないでしょう。

お召列車を牽引してきた蒸気機関車には色々な形式がありますが、意外にもC62やC53といった大型機関車は牽引していないようです。わずか5両編成なので、そこまでパワーは必要ないといったところなのかもしれませんが、C59やC60はガッツリ牽いています。

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田中泰三様提供の画像につき、転載はご遠慮ください。(リンク先の田中泰三さんとは関係がありません。)

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昭和43(1968)年9月20日 鳥取機関区

車歴は↓こちら。

18621 機関車データベース (形式8620) - デゴイチよく走る!

パイプ煙突にシールドビーム。大正時代のモダンなスタイルをいささか損なっている印象ですが、現場の都合に合わせた改造と思えば致し方ないことだと思います。C54形式より前の形式では除煙板が後付けされたこともあってか、様々な形状があります。ハチロクやキューロクでは画像の形状が主流でしたが、シリンダー上方に点検用の穴が設けられたり、前端上部角に隅切りが行われたりもしました。幾分、背の低いものがあったり、九州では門デフも見られました。ちょっとしたアクセサリーがその機関車を特徴付けてしまうのは、人間と同じでしょうかね。

ところで同世代のキューロクとともに気になるのはキャブへのステップです。炭水車とキャブ下の2カ所に設けられています。位置から考えて、キャブ下のステップは要らんだろうと思うのですが、これはおそらく検査時に炭水車と切り離した際に、作業者がキャブへの上り下りに使ったのではないかと想像します。

それまで日本の蒸気機関車はほとんどを輸入に頼ってきましたが、英国製の機関車がこの2ステップ構造となっており、それに対して米国製の多くは炭水車の1ステップのみとなっています。ハチロクは独逸製に近いのですが、2ステップです。

大型輸入機である8700形式(英)、8800形式・8850形式(独)、8900形式(米)らは、日本の仕様書がそうなっていたのか、全て2ステップです。

ハチロクに続く18900形式(C51形式)も初期の頃は2ステップでしたが、後に1ステップとなり、9900形式(D50形式)以降では最初から炭水車の1ステップとなります。C53流線型以降の密閉キャブでは出入り扉下のみの1ステップがほとんどですが、C58の戦前形は炭水車1ステップとなっています。なお北海道の密閉キャブ化改造車はオリジナルの炭水車1ステップのままです。この辺りのディテールについては、模型屋さんなら常識なのでしょうね。

たかがステップにも歴史が垣間見えます。そういえば、DD51のフロントステップには様々な形状がありましたね。

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昭和43(1968)年12月30日 小沢駅

車歴は↓こちら。

19650 機関車データベース (形式9600) - デゴイチよく走る!

前回の19640の同僚で倶知安機関区所属。2灯仕様で胆振線岩内線で活躍していました。画像は小沢駅構内で貨車の入換を行っているところでしょうか。中線にいますね。晩年は追分機関区に異動して構内入換に従事します。

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昭和50(1975)年6月29日 追分駅

炭水車の前照灯は1灯ですね。本線をバック運転することがなかったからでしょう。

ちょっと分かり辛いのですが、一番下の画像では補助灯が設置されて3灯になっています。補助灯の陰に右前照灯が隠れた格好になっていますが、庇がちょこっと前に飛び出ているので、それとなく分かります。車歴では倶知安機関区時代の昭和37(1962)年に補助灯が取り付けられたとなっていますが、一番上の写真ではそれが確認できません。追分機関区の前は小樽築港機関区の所属で、その時には3灯化されています。一説には、築港へ転属される前に3灯化とゼブラ塗装が行われたとあります。築港時代のゼブラ塗装は煙室扉や除煙板の前端、そして炭水車後面に施され、追分時代にはゼブラ塗装の代わりにゲバ字で汚されているのが何とも残念です。

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SAMPUKU爺様提供の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和42(1967)年8月10日 倶知安機関区

 

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昭和43(1968)年12月30日 倶知安機関区

車歴は↓こちら。

19640 機関車データベース (形式9600) - デゴイチよく走る!

胆振線の運用にあたっていたキューロクは、落石をより早く発見できるように前照灯を2灯装備していました。これは、日高本線富内線で運用されていたC11も同様です。落石だけでなく、大雪時でも期待できそうです。前照灯に取り付けられた庇が、つぶらな瞳っぽくて何ともいい味を出しています。倶知安のキューロクは、胆振線の他に岩内線の貨物列車も牽引していたので、短区間ながら函館本線も走っていたことになります。転配によって1灯に戻されるケースが多かったのですが、しぶどく2灯を固守したカマもいました。2灯機関車は現在でも、東武鉄道で活躍するC11 207で当時の姿を偲ぶことができます。

 

そして廃車。

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昭和50(1975)年5月5日 名寄機関区

庇付きではなく、普通の前照灯1灯+補助灯になっていました。

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SAMPUKU爺様提供の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和42(1967)年8月17日 鷲別機関区

 

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昭和43年夏 美唄

 

車歴は↓こちら。

19612 機関車データベース (形式9600) - デゴイチよく走る!

美唄駅での画像ですが、車歴表を見ると、場所的にちょっと怪しいです。

いかにも北海道らしい切り詰めデフです。前照灯1灯が時代を感じさせます。もっともこの時代、C62は3灯でしたけど。

2枚の画像に何か違いがあるか探してみましたが見つかりません。蒸機は同じ形式でも機関車によって違いがあるだけでなく、同じカマが時期や配属先によって姿を変えるケースが珍しくないので、特定機を模型化する場合にはその時代なども考慮しなくてはいけないのが難しくもあり面白くもあるところでしょう。

北海道のキューロクとして最も強烈に残る記録と云えば、日本で一番長い貨物列車を牽引したということでしょうか。大正7(1918)年4月に石炭を満載した10トン貨車(24トン積み)75両がキューロクに牽かれて室蘭本線を走りました。平坦区間ながらも総重量2500トンにもおよぶ列車を、大正生まれの蒸機が牽引したというのはかなり驚きです。昭和に入ってからは、D50やD51が2400トン、2800トンといった石炭列車を牽引しています。肝心の列車長がいかほどであったのかは分かりませんが、貨車1両が10mとしても750mにもなります。駅の有効長を考えると、無停車でもない限り今の線路を走ることはできませんね。当時と運転速度は全く異なりますが、現在の最重量貨物は1300トンです。

 

画像を追加します。

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昭和49(1974)年9月29日 宗谷本線下沼駅(324列車より)

追加する意味あんの?と言われそうなガッツリ拡大した状態の悪い画像で恐縮ですが、廃車半年前の煙室扉サビサビで頑張っている姿です。回転火の粉止めにはお皿が載っており、うるさいファンからは嫌われそうです。前端梁にはトラ模様が残っています。補助灯をしっかり載せており、本線用機関車然としています。

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田中泰三様提供の画像につき、転載はご遠慮ください。(リンク先の田中泰三さんとは関係がありません。)

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昭和43(1968)年3月31日 米子機関区

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78637 機関車データベース (形式8620) - デゴイチよく走る!

後期型の機関車で、標準的な外観に見えます。自信ないけど。最初から空気ブレーキを採用していたので、制動装置も最初から搭載。

ところでハチロクの設計に当たり範としたのが、ドイツ製の8800形式と云われています。日本で大型の機関車を開発するにあたり、その参考のために海外から輸入した機関車(8700形式、8800形式、8850形式、8900形式)の1形式で、確かに動輪配置は同じです。8800形式は関西圏より西で活躍しましたが、同じドイツ製の8850形式は主に関東で活躍しました。第一動輪を主動輪とする独特なフォルムで、川崎造船所ではコピー機が製造され、その一部は晩年を北海道の私鉄(三井鉱山奈井江鉱業専用鉄道線)で過ごしました。キューロクの設計ではボイラーの高さが問題視されていましたが、ボイラー位置の高い8850形式でその安全性が確認されていたことで、キューロクの製造にGOサインが出されたそうです。何しろ日本最初の本格的国産機関車のトップバッターですから、欠陥があってはいけません。慎重に慎重を重ねての判断だったのでしょう。(しかし、あっと驚く左クランク先行。)因みに日本でボイラー位置が一番高いのは、いわずとしれたC62です。

この中型機関車のハチロクが所定の性能を発揮した優秀な機関車だったことで、いよいよ大型の旅客用機関車18900形式(後のC51)の開発へと進むことになります。

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田中泰三様提供の画像につき、転載はご遠慮ください。(リンク先の田中泰三さんとは関係がありません。)

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昭和43(1968)年3月31日 米子機関区

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68650 機関車データベース (形式8620) - デゴイチよく走る!

パイプ煙突にシールドビーム。ハチロクの貫禄を損なう姿に、ファンからは嫌われそうです。キャブ昇降口には、手摺が炭水車にも付いているのですが、この機関車の炭水車には更に手摺が追加されています。なんか使い辛そうな位置に思えるのですがね。

私の乏しい知識では、もうあまり書くことはなくなっています。お召し機のハチロクの写真もあるのですが、それをご紹介するのはまだ少し後になります。花輪線で見られたボックス動輪のハチロクの写真は見つかりません。