ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

C58 125とC58 254とC58 126

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和43(1968)年6月25日 多度津機関区

車歴は↓こちら。

C58125 機関車データベース (形式C58) - デゴイチよく走る!

C58254 機関車データベース (形式C58) - デゴイチよく走る!

125号機は廃車直前の姿で、すでに火を落としている模様。前照灯も取り外されているし。一方、254号機は元お召し機。125号機とはナンバープレートの設置高さや煙室扉の取っ手位置の違いから表情は若干異なるものの、概ね似ています。砂撒き管は両機とも増設されています。

 

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昭和47(1972)年6月13日 五稜郭機関区

車歴は↓こちら。

C58126 機関車データベース (形式C58) - デゴイチよく走る!

江差線松前線で客貨牽引で活躍していました。125号機と兄弟機ですが、北海道仕様に改造されて他人の表情となっています。この機関車も砂撒き管が増設されています。

C58など多くの形式では砂撒き管は主動輪(C58では第二動輪)の前後にありますが、幻の機関車C63では第一動輪、主動輪の前方に設置されています。設計思想上、どのような違いがあったのでしょうね。因みにC63は、ディーゼル機関車の開発が遅れていたならば、200輌ほどが製造される予定でした。C58では実用化されなかった蒸気圧18kg/cm2を採用し、C51並のパワーを実現できたそうです。

C57やC59以降の旅客用大型機では煙室前端が丸味を帯びていますが、C58はローカル輸送用であるため華美は不要であり、また日中戦争の戦時下により工数削減という理由から角張ったものになったのでしょう。

C58 124

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和46(1971)年2月17日 行橋機関区か?

車歴は↓こちら。

C58124 機関車データベース (形式C58) - デゴイチよく走る!

顔写真がないのは残念ですが、特徴ある除煙板が両側ともしっかり写っています。本来の除煙板に対して、屏風を上方へ継ぎ足しされています。除煙板が未装備だった時代、C51には様々な除煙板が試作装備され、その中には巨大な除煙板というものもありましたが、標準装備された時代、門デフ・切り詰め・切り欠きなど以外に、こんな巨大化改造を行った例はこの機関車だけだと思います。大分運転所の前の高松機関区時代にはすでにこの姿でした。

キャブ出入口にはチェーンを張っていますが、これは扉を撤去したことによる安全上の措置です。密閉式キャブは九州地区では歓迎されず、このように扉を撤去する例は幾つもありました。

上から3枚目の画像にはリンゲルマン濃度計が確認できます。

豊肥本線で客貨牽引に活躍していた頃だと思います。それが何故に行橋にいるのか?電機が何輌も駐留しているし、もしかすると撮影場所は大分運転所かもしれません。

C58 122

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和47(1972)年8月28日 小郡機関区

車歴は↓こちら。

C58122 機関車データベース (形式C58) - デゴイチよく走る!

比較的、原形を保っているように見えますが、いかがでしょう。

116号機と比べると、ナンバープレートは少々大きいようです。122号機はAD66180、116号機はAD66398の図面を基に製作されたようです。メーカーズプレートも、同じ汽車會社なのに、122号機のものはとてもコンパクトであっさりし過ぎ。

このおよそ1か月半後に小牛田機関区へ異動になりますが、そこでは陸羽東線の迂回運転で優等列車を牽引することになります。

廃車後は宮城県栗原郡築館町(現 栗原市)に保存されますが、その姿を確認すると、前照灯や煙室扉ハンドルが交換されています。

保存はされたものの管理が行き届いておらず、荒れるに任せて結局はスクラップ。鉄道車輛の保存には手もお金もかかるもの。その覚悟や予算なくして保存は無理。紙の本が電子書籍になるように、鉄道車輛も3次元データ化して保存される時代が訪れるかもしれません。そうすると弁当箱より小さなデバイスの中に、何輌もの車輛が保存できちゃうかも。三次元投影装置により好みの縮尺で再現。空間に動かすことも可能。夢の世界やな。

C58 121

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和43(1968)年6月25日 讃岐津田駅

 

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昭和43(1968)年6月25日 徳島気動車小松島支区

車歴は↓こちら。

C58121 機関車データベース (形式C58) - デゴイチよく走る!

多度津工場製の集煙装置と重油タンクを装備した姿は、中型のC58であっても実際以上に逞しく見えます。

2枚の写真は同じ日に撮られたようですが、煙室扉のハンドル取っ手の位置が異なりますし、後部標識灯が外されています。2枚目では車両基地で整備を受けた後ということになるでしょうか。

キャブ前面には明り取り用の丸窓がありません。後ろの妻板にも丸窓があったりなかったり。図面には描かれているので、あるのが標準だとは思うのですが、戦局に照らし、灯火管制対策として埋め込まれた?

C58 119

田中 泰三様と江別の鐵様の画像の転載はご遠慮ください。

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昭和48(1973)年11月25日 釧路機関区

 

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昭和49(1974)年7月 女満別

 

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昭和49(1974)年8月1日 原生花園

 

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昭和49(1974)年12月 網走駅

車歴は↓こちら。

C58119 機関車データベース (形式C58) - デゴイチよく走る!

伴宙太の巨人時代の背番号。

炭水車後面の梯子や補強されたステップ、奥まった位置の前照灯などに特徴がありますが、何と云っても左右の除煙板を結ぶアーチ状のツララ切りが釧路区機関車の最大の特徴です。

また切り詰め除煙板は当然としても、コの字型手摺が両側に設置というのも釧路区ならではのようです。(通常は向かって右側だけ。)

ドーム前の手摺も苗穂標準の扇形ではなく、もう少し大きめです。

「架線注意」札はなく、補助灯はシールドビームではなく、後部標識灯状のもの。

煙室扉の取っ手は、外側に寄り過ぎています。

現在は北見市に保存されており、状態は良好とのこと。

C58 116

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和42(1967)年7月15日 高山機関区

 

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昭和42(1967)年9月18日 高山機関区

車歴は↓こちら。

前照灯は、前はシールドビームですが、後ろは違います。

些細なことですが、キャブ前窓の庇には、孔が2カ所設けられています。何のためなのでしょう?

区名札ですが、もしも「山口機関区」があったとしたら、高山機関区の区名札はどうなっていたのでしょう。あれ?山形機関区も「山」だったのでは?でも蒸気機関車の配置は確認できないので(DD15などが配置されてはいました)同じ区名札でも支障はなかったのでしょうか。

沼津機関区へ転配された後は入換専用機となり、クルクルパーのお皿を載せ、駅構内の他、沼津港線で貨車を牽いたりしたのだそうな。沼津港線は昭和49(1974)年に廃止されています。

C58 115

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

K-7タイプの門デフを装備した115号機。

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昭和43(1968)年3月 大分運転所

 

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昭和46(1972)年2月17日 大分運転所

車歴は↓こちら。

C58115 機関車データベース (形式C58) - デゴイチよく走る!

昭和41(1966)年10月の大分国体開催に際し、お召列車が運転されました。まず21日に、佐伯~別府間はDF50 560+DF50 553で運転。車歴表ではこのことを差してC58 115は予備機であると指摘していると思われますが、25日に大分から由布院まで久大本線を運転された際にはC58 277+C58 115が牽引しています。「蒸気機関車 No,38」では後者と前者とを錯誤したように思います。

この当時、大分運転所のC58には、105(記事は既出)、112、115、277、350号機の5輌が在籍し、全機がお召整備を受けました。112号機だけは予備機としてお召牽引には当たりませんでしたが、実は昭和33(1958)年4月の植樹祭や昭和35(1960)年10月の熊本国体でお召列車を牽引しています。つまり全機がお召牽引機というエリート揃いだったわけです。しかも全機が門デフ装備でした。すごくね?