ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D51 83

田中 泰三様とSAMPUKU爺様と江別の鐵様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年8月13日 滝川機関区

 

昭和42(1967)年8月17日 美唄

 

昭和47(1972)年6月18日 鷲別機関区

 

昭和47(1972)年7月 千歳~美々

 

昭和47(1972)年7月 西の里信号場

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D5183

煙室扉の十字ハンドルは、いつの間にか普通の丸ハンドルに変わっています。他の機関車と、ばくったのでしょうか。

ナンバーは53号機などと同様な窮屈タイプ。

砂撒き管が3本とも垂直に降りているのは汽車會社製の特徴です。

関東地区での運用ではスノープラウが必要なかったらしく、昭和42年の画像では前端梁に固定用のボルト孔がありません。昭和47の画像では、それらしき孔が確認できます。

画像の西の里信号場は単線時代の時の物で、数年前に廃止されたものとは場所が異なります。右端に事務所の建物が見えます。事務所のすぐ前にはタブレット授受のための短いホームがあり、乗降もできたようです。昭和48年9月に、現在の新線に切り替わり信号場は廃止されました。因みに国鉄時代、根室本線の金山~東鹿越間にあった鹿越信号場や、超有名な常紋信号場も、かつてはホームがあって乗降できました。駅に昇格した仁山信号場や姫川信号場や渡島沼尻信号場もおそらくそうだったのではないかと。

築堤を行く画像は、南千歳駅の南側にある、石勝線を跨ぐ場所で撮影したものでしょう。当時はまだ南千歳駅はありませんでしたので、江別の鐵様は千歳駅からせっせと歩いていったのでしょう。若い頃って、歩くことに全然抵抗はありませんでしたね。

 

新鶴見区時代の写真が見つかりました。

昭和41(1966)年頃

北海道の時代に比べ、うっとりするくらい美しく思ってしまうのは、私の勘違いなのでしょうか。シールドビームはとても残念ですが。