ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D50 25

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

f:id:railway-photo:20220212073927j:plain

昭和42(1967)年8月13日 滝川機関区

車歴は↓こちら。

D5025 機関車データベース (形式D50) - デゴイチよく走る!

登場時は9900形式で9900~29975まで付番され、次の277号機以降は最初からD50形式として落成しました。9600形式の後継機として大幅にパワーアップして登場した貨物用機関車です。国産初のミカド形式で、動輪径1400mmは貨物用としては最大のもの。これは後のD51、D52にも継承されます。従輪を備えたミカド形式とした理由は、パワーアップするために火格子面積を拡大するためでした。9600では同様の目的のため、火室を動輪の上に配置させましたが、重心が高くなるため動輪径を大きくすることができませんでした。8900形式に始まる従輪を備えた旅客用パシフィック機(C51~C55、C57、C59)も、同様の理由で採用し普及したものです。

大正末期から昭和初期にかけて380輌が製造され、当初から空気ブレーキを採用しており(当然、空気圧縮機付き)、またフロントデッキには給水温め器を標準装備(当然、給水ポンプ装備)するなど、大型化に加え近代化された機関車でもありました。ただし近代機関車のシンボルでもある除煙板は後年、取り付けられたものです。

製造時期による形態の変化はあまり見られませんが、最初の8輌だけは砂箱が蒸気ダメのすぐ後方(第二動輪と第三動輪の間あたり)にありました。そして重量貨物列車や勾配区間での運用を考慮し、空転防止のために砂箱は大型になっています。搭載する砂の量は9600の3倍近くにも及び、更に後継のD51よりも幾分多いものでした。砂箱と云えば、汽車會社製のものだけがドームの角のアールが小さいために幾分角張った印象を受け、これはC62のドームにも云えることでした。

初期車では動輪バネ装置が下バネ式であったのが、保守上難儀とのことから途中より上バネ式に変更されました。それでは下バネ式は一体何輌存在したのかということが研究者の間で問題になっていました。それまで29輌説が主流だったようですが、この25号機が下バネ式であることからそれは誤りとされ、今では諸々の写真・資料から22輌説が有力のようです。(24号機も下バネ式であったことが写真で確認されています。)

大型機関車だけに軸重は当時C51と並ぶ最大の15トン。よって投入線区は幹線に限られましたが、函館本線北陸本線中央本線常磐線東海道本線山陽本線鹿児島本線と広範囲に及んでいます。

キナ臭い時代に生まれたことで、9600同様に標準軌に改軌された上で大陸へ軍供出されることになりますが、193号機の1輌だけに留まりました。

 

画像の25号機は北海道仕様となっていますが、煙突にはクルクルパーを載せてはいるものの、化粧煙突のままです。ただ、先輪がスポークではなくディスクタイプに履き替えられているのが個人的にはちょっぴり残念です。現在、D50には無縁だった北見市に保存され、異郷の地で大正時代のオーラを放っています。

加減リンクの下部からD51などでは見慣れないロッドがランボード上のボックスにつながっています。ボックスの正体はオイルポンプです。ピストンなどの摺動部へ給油します。そのポンプを作動させるのが、これらロッドということになります。D50の後に登場したC53では加減リンクの上部(耳軸)にロッドが連結され、更にD51などの近代機では構造が変更されており、ここで文章で説明するのは難しく細密模型でも再現するケースは稀だと思いますので、これまで掲載した画像を参考にして下さい。

 

f:id:railway-photo:20220212091651j:plain

最初の画像とは僅かにアングルが異りますが、「BeeBooks」の

「記録写真集 昭和40年代の鉄道 第6集/北海道編Ⅱ」

のP.60には、この画像と酷似した写真が掲載されています。撮影日と撮影場所が異なりますが、背景も陽の向きもロッドの位置も撮影アングルも同じ。一体どうなっているのでしょう???写真のドッペルゲンガーです。