ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D50 117

田中 泰三爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和43(1968)年3月 直方機関区

車歴は↓こちら。

D50117 機関車データベース (形式D50) - デゴイチよく走る!

化粧煙突がいい雰囲気を醸し出していますが、化粧煙突を装備した新造形式はD50が最後になります。「さよなら大正時代」といったところでしょうか。本機の化粧煙突は継ぎ足しを行っています。継ぎ足した方が排気はよかったのでしょうか。煙突ひとつとっても、歴史があります。

九州の筑豊地区は、D50が最後まで活躍した地域になります。長編成のセムやセキを牽引する姿は写真や映像でしか知りませんが、北海道でも室蘭本線で2400トンもの石炭列車を牽いたと云いますから、北と南でその力を存分に発揮したことでしょう。

本形式は当初から空気ブレーキを搭載していますが、当時はまだ真空ブレーキの車輛も残っていたので、それら車輛が全て空気ブレーキ対応となるまでの間、D50は真空ブレーキも装備していました。空気ブレーキを採用するにあたっては空気圧縮機の搭載が必須ですが、これにより焚口扉は圧縮空気で開閉できる動力式が採用されることになります。足でペダル(踏子:ふみこ)を踏むと、スコーと扉が開くアレですね。動力式焚口扉はアメリカ製のC52で採用されたと言われています。日本初のパシフィック機8900形式もアメリカ製でしたし、明治初期に登場した北海道初のアメリカ製蒸機機関車7100形式(義經、辨慶、しづか號など)などは当初から自動連結器・空気ブレーキを採用するなど、アメリカの機関車は常に最先端を走っていたようです。日本の蒸機機関車はイギリスやドイツの機関車を教科書にして国産化にこぎつけましたが、D50の設計はアメリカ流と言われているそうです。