ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D51 149

江別の鐵様の画像の転載はご遠慮ください。

昭和50(1975)年夏 追分駅
機関士の体の向き、心向き棒の位置、ドレインの吹き出し方向からして、バックしているところのようです。機回しか入換かは分かりません。大体「どこだよここ」と、玉城ティナ風に言ってみる。体の硬い私には、後ろ向きで運転するなんざ到底無理です。

煙室扉蝶番のリブが、148号機に比べるとミニサイズです。他に特徴らしい特徴は見つけられません。

 

昭和51(1976)年6月23日 苗穂工場

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51149

蒸機末期まで生き残ったものの、引き取り手が無く解体されてしまいました。

この当時、私は桑園の予備校に札沼線で通っており、通学カバンの中には買ったばかりのミノルタXEをタムロンのズームレンズとともに忍ばせていました。この日はまっすぐには帰宅はせず、苗穂工場へ偵察に向かいました。この頃、廃車となった蒸機の大量のムクロが小樽築港駅構内に留置されており、時折、DD51が牽引する貨物列車に組み込まれて苗穂工場へ回送されていました。数日前にたまたまその貨物列車を桑園で見かけていたので、その後のことが気になっていたのです。桑園から苗穂までどのように来たのかは忘れましたが、跨線橋から苗穂工場を覗いてみると、見るも無残、149号機がガスバーナーで次々と車体が切り裂かれ剥がされていました。その姿には何とも言いようのない寂しさ虚しさ悲しさを覚えましたが、そういった感情を抜きにして記録に徹してカメラを向けました。鉄(正確には鋼(はがね))から生まれた蒸機は、こうしてまた鉄へ還ってゆくのですね。

ところでこの三日後、アントニオ猪木とモハメッド・アリとの異種格闘技戦がありました。世界初の大物ファイターによる世紀の対戦とばかりに大いに期待されましたが、猪木のマット寝っ転がり作戦と、その猪木に対して成すすべのないアリの姿に、多くの人はガッカリしたようです。キックボクサーなら寝っ転がっている猪木を蹴り飛ばして、リングの外まで転がしていたでしょうか。