ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D51 566

田中 泰三様と江別の鐵様の画像の転載はご遠慮ください。

昭和47(1972)年6月14日 岩見沢第一機関区

北海道機にはあるまじき、ぴっかぴかのカマ。除煙板上部ステーは、パイプではなく、平板を使用。この幅の平板では強度は出ないでしょう。左右で歪み方が異なっています。前回の565号機とは違って、こちらの「架線注意」札3枚は、大きさの異なるものをちゃんと使い分けています。

 

昭和47(1972)年6月14日 岩見沢~志文

今は旅客列車も走る当時の貨物専用線かな。国道12号線をオーバークロスしている場所かと。機関助士は制帽を着用しているのでしょうか。

 

昭和49(1974)年8月5日 岩見沢第一機関区

お馴染みの岩見沢跨線橋から。他の画像でも分かる通り、ドームの砂排出管は左右にあります。ドーム前方の手摺ですが、苗穂工場タイプの扇形かと思いきや、ちょっと構造が違います。苗工タイプの場合、手摺は踏み台に固定しているのですが、こちらは独立して缶胴に固定しています。221号機も缶胴に固定していますが、手摺の形状が違うように見えます。こんなどうでもいいことが気になってしまうなんて、もっと他に考えることがあるでしょうに。

 

昭和49(1974)年12月31日 遠浅→沼ノ端

上り千歳線の橋梁検査路から。今では完全にアウトな場所ですが、当時、ここで撮ったファンって結構いたのではないでしょうか。50年近くも前のことなので、時効ということで。

 

昭和50(1975)年4月6日 苫小牧機関区

室蘭本線の追分より南側で撮影した時には、いつも苫小牧経由で帰宅していました。乗り換え駅は本当なら沼ノ端なのですが、時間に余裕があり過ぎるので、つい苫小牧まで足を伸ばして、ホームから休息中のD51にカメラをむけていました。

それにしても、逆止弁をランボードからドーム前方に移設したのは何故なのでしょう。給水温め器を装備したC51、C52、D50と、ほぼランボード上に設置していたのをC54から上に上げてしまい、それがC55、C57の二次型まで続きました。C57の三次型以降とD51でせっかく下ろしたのに、何故かC58でまた上げてしまった。う~ん、さっぱり分かりません。因みに逆止弁ですが、給水温め器で作られた熱湯はボイラーに送られるのですが、給水温め器側の水圧が低いとボイラー側から逆流するため、それを阻止するための弁です。

 

撮影日不明 栗丘→栗山

いわずもがなの栗丘~栗山間です。今は後方の山に大きな橋梁がオーバークロスしています。ここでは、列車によって盛大に煙を吐くことがあるのですが、夏のせいか、この列車では煙はちょっと薄目です。

 

昭和50(1975)年10月19日 早来駅

D51が牽引する貴重な225列車。当時はそのありがたみなど微塵も感じておりませんでした。感じる人の方がチョー少なかったでしょうけど。

 

昭和50(1975)年12月14日 岩見沢第一機関区

C57 135による国鉄最後の蒸機牽引旅客列車が運転を終え、その後に岩見沢第一機関区へ立ち寄った際に撮影したものでしょう。火を落とした車体には雪が積もるばかりです。

 

昭和51(19769年3月4日 小樽築港駅

この後、赤平へ送られ静態保存されるのですが、今は立入ままならぬ場所で管理者不在のまま、朽ち果てる一方なのだとか。地元のミスター鈴井さん、「水曜どうでしょう」で、洋ちゃんに整備させてあげて~。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51566