田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮下さい。
昭和42(1967)年8月1日 直江津機関区
糸魚川区のD51に採用されていた松任式集煙装置を搭載。そしてドーム後方には重油タンクを背負いますが、その形と云えば完全な直方体。A型重油タンクは通常、ドームと安全弁の間に設置しますが、この重油タンクは安全弁とキャブ間に設置しています。それに絡んでのことかどうかは分かりませんが、ATS用のタービン発電機は公式側に取り付けています。
車歴表とは異なり、「東北の蒸気機関車ー青森を中心として 下巻 樋口慶一写真集」(プレスアイゼンバーン)によれば、昭和44(1969)年~昭和46(1971)年頃は青森機関区の所属であり、昭和46年2~4月の間に異形A型重油タンクを撤去し、炭水車上にB型重油タンクを載せています。また青森区時代には集煙装置を取り外しており、短い煙突姿を披露しています。なお、下の画像にある、公式側の切り取られた除煙板は、青森区へ異動になる前の処置だったようで、金沢運転所時代に施工されたものでしょう。
補助灯は青森区時代に設置され、また重油タンクの付け替えが行われた時期にはキャブ屋根の延長工事も実施されています。
車歴表にある1969年の糸魚川区から富山第一区への転属、1970年の富山第一区から青森区への異動という記録には疑問が残ります。富山第一区への異動は存在せず、その写真集では糸魚川区から青森区への異動だったと解説しています。この辺りの経歴について、ネット上の記事では誤りが散見されます。
この機関車もポンプ箱をランボードの上に載せています。浜松工場製のスタイルなのでしょうか。
昭和48(1973)年7月9日 中津川機関区
青森区から中津川区へ転属となり、長工式集煙装置を装備します。そして廃車。保存に向けて化粧が施されています。
青森区時代の重油タンク、キャブ延長屋根は撤去され、ATS用タービン発電機は非公式側に移設されています。煙室扉の十字ハンドルは中津川区時代に交換されたものでしょうか。除煙板の歪みは、青森区時代にも若干見られました。
幅広だった排障板も、中津川区時代に小振りなものに付け替えられたようです。
岡崎市で保存されている姿は現役末期のものであり、それまでには個性的な姿が幾つもあったということを、もっと知って欲しいですね。
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