SAMPUKU爺様と江別の鐵様の画像の転載はご遠慮下さい。
昭和42(1967)年8月17日 追分機関区
岩見沢区へ異動となる半年前の姿。除煙板は木製だったものを鋼製に代えたものですが、縁を補強し、上部の折り曲げの無い、独特のものです。左右で、上部ステーの取付位置は異なっているのでしょうか。まだ切り詰め前です。
角が煙室端から飛び出しているエプロンは東北時代、土崎工場で取り付けられたものなのでしょう。
昭和48(1973)年8月 苗穂機関区
戦時型同士が連結されています。
密閉キャブ、奥まった位置に設置された炭水車の前照灯、補強された炭水車背面のステップ、同じく背面に取り付けられた吊り金具、撤去された清缶送入装置など、北海道機らしさが溢れています。
昭和49(1974)年3月 栗丘駅付近
当時の蒸機ファンなら誰もが一度は下車した栗丘駅。ホームをはみ出して駅に停車しているところかもしれません。蒸機牽引最終客車列車に選ばれた225列車で、所定D51が牽引していました。炭水車の落書きがウザイです。動労のばかもの。
昭和49(1974)年3月17日 岩見沢第一機関区
駅のホームから撮影できた岩一区の機関車。DLとELの基地である岩二区は、操車場の先、お隣の上幌向駅との中間にあります。
昭和49(1974)年3月25日 三笠駅
この時、風邪を引いていましたが、数日前にかかりつけのお医者に「撮影に行ってもいいですか」と尋ねて「無理をしなければね」のお墨付きを頂戴しての撮影です。三笠から幌内へは、列車はスイッチバックで向かうため、駅に隣接する踏切を長時間に渡り閉鎖しますが、岩見沢~幾春別間の貨物列車もまた、しばしば踏切を長時間に渡って閉鎖していました。なので、この踏切は機関車をじっくり撮影するには絶好の場所でしたね。いかにものんびりした時代だったということでしょう。
車歴は↓こちら。