ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D52 56

江別の鐵様と’撮り人不明’様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年2月11日 五稜郭機関区

終戦直後の昭和20(1945)年9月おける北海道のD52は、全31輌が長万部機関区へ配置され、函館本線室蘭本線で貨物運用に就いていました。しかし昭和25年(1950)までに本州区への異動、ボイラ不良と余剰による廃車、C62への改造による車籍抹消により、一旦は北海道からD52は全機撤収します。それでも昭和35(1960)年9月から10月にかけて、再び貨物輸送の増強を目的に、今度は五稜郭機関区に一挙13輌が配置されます。56号機はその時に配置された機関車で、キャブが密閉化されています。D52で密閉キャブ化されたのは僅かに4輌で、56号機の他には136、201、235号機なのですが、いずれもその時に北海道に渡って来た機関車です。なぜ4輌だけキャブが密閉化されたのでしょうね。

 

 

ずらりと並ぶ廃車体の中には他のD52も混じっていたのでしょうか。五稜郭機関区の北側には操車場が広がっていましたが、ここはその北側にあたる場所のようです。このホームは機関区や操車場向けの物資を荷卸しするためのものなのでしょうか。左側に写る盛土の線路は函館本線下り線と思われます。違っていたら連絡してね、江別の鐵様。

昭和49(1974)年3月 五稜郭機関区(操車場?)

D52では除煙板にバイパス弁点検口を設けた例は少ないです。今のところ写真が用意できているのは72、236、335号機のみ。除煙板の後端が点検作業にはあまり邪魔にならない位置にあったので点検口はさほど必要ではなかったのでしょうかね。

キャブ密閉化により、炭水車のキャブ側端面は後退角を設けて干渉を避けているのはD51と同じです。

戦時型D51とD52とでは同じ船底形炭水車とは云え、形式は異なります。D51が10-20形式に対してD52は12-25形式として石炭も水も容量が増加し、全長もD52の炭水車の方が1m以上も長くなっています。そうした構造上の違いからか、D52では船底形炭水車のままメカニカルストーカーが装備されている点もD51とは異なります。なおストーカー搭載によりD52の炭水車は10-22ASに形式変更されています。

炭水車の話題ついでに、D51も含めて戦時型の炭水車では、炭庫の部分が一段内側に木製の側板を設ける構造でした。これはバック運転時の見通しを確保するためのもので、C56の炭水車と同じ発想によるものです。戦時型D51やD52でバック運転を想定したのは、機関区が敵攻撃により被災し、転車台が使用不能になった時の対応だったそうで、まさに戦時態勢を象徴する形態と云えるでしょう。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D52/D5256