ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

函館駅

あお~い海、函館を・・・なんちゃら。
青函トンネル開業前、静岡県や神奈川県に住んでいた私は札幌への帰省の折には青函連絡船を使っておりました。連絡船に乗ると、海で隔てられている本州と北海道との距離感をいやがうえにも感じさせられ、それが生活習慣などの文化の違いや所得格差にも表れているのかななどと感慨深く思ったものです。とにかく北海道は遠い・・・。

昭和50年代後半、夏休みなどの繁忙期には連絡船もそれなりに混んでいました。特に深夜便はいつも混雑していて、気弱な私は座敷席・椅子席争奪戦を端から放棄し、時刻表を尻に敷いて通路で夜を明かしたものです。
3時間50分の船旅を終え連絡船を降りると、今度は列車座席争奪戦が始まります。跨線橋やホームはマラソン大会のスタート時の様相を呈します。ブルジョワジーな皆さまは指定席券を持っているので悠々と歩いてゆきますが、指定券を持たぬ庶民は早い者勝ちルールに従い、全力を振り絞って速足で突き進むのみです。

まあ、そんなこたあどうでもいいです。函館駅です。

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函館山を遠くに見て、建て替え前の函館駅の駅舎です。
「れんらく船のりば」が何か泣かせます。年を取ったせいでしょうか。

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駅の周りをうろついてからホームに戻ると、山線回りの札幌行き急行「ニセコ」が停車中でした。
急行「ニセコ」は、当時でも珍しかった昼行の客車急行でした。
すでにC62牽引は伝説になっており、DD51紫煙(タバコのことじゃないです)を上げて引いておりました。
紫煙といえば、この頃はタバコを吸いながらの運転って珍しくなかったような気がします。
今でもJR社内的には、眠気覚ましのタバコやアメ、ガム、飲料水はOKのハズですが、つまらない正義感溢れる(あるいは目立ちたい)御罵化な乗客が、通報したり写真に撮ったりして騒ぎを起こすおそれがあるので自粛しているようです。新聞もそんなどうでもいいことを記事にしそうだし。
電子タバコすら認めない禁煙家とか、いつからこんなにせこく窮屈になったのでしょう。せこいといえば、大きな自治体の知事にもそんなのがいましたね。いや、いますね。文春ではケチ事とか言われてます。
因みに私はタバコを59年間ただの1本も吸ったことがなく、大嫌いな人間です。

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構内のはずれでは、DD13が連絡船から貨車を引き出しています。機関車は重く、船の中には入れないので
「控え車」という貨車を介して船の中から貨車を引き出します。貨車の他には、荷物車や郵便車、新車や配置換えの客車や機関車など、鉄道車両は全て船輸送していました。鉄道連絡船と呼ばれる所以です。

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ニセコ」の前に戻ると、DD51が連結されるところでした。このDD51を見て「三つ目」以外に何かを感じた人は相当なファンでしょう(ヒント:ナンバーの位置)。こんな光景を撮影するファンは私以外一人もいませんでした。同じホームには他に鉄ちゃんが一人いたんですけどね。

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隣の3番線にはDD51が単機で、そのまた隣の2番線にもDD51牽引の普通列車が停車中です。
SGの蒸気が風情を醸し出します。年末ですが、函館に雪はありませんでした。
北海道はもっぱら蒸気暖房で客車の中を温めておりました。電気暖房では熱不足だったからでしょうか。電気機関車のED76も蒸気暖房を積んでおりました。

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フェイントをかけてしまいましたが、乗車したのは特急「北斗」でした。
苫小牧に帰省する会社の先輩と一緒だったので、山線回りの「ニセコ」は使いませんでした。
指定席券を持っていましたが、空いているのをいいことに、大半を食堂車で飲んだくれて過ごしてしまいました。
日中から顔を赤くして、あ~恥ずかしい。赤面してしまいます。ダブル赤ら顔です。

札幌まで4時間半、「ニセコ」だと5時間半もかかっていましたが、急がない旅ではちょうどよい時間だったのではないでしょうか。4時間の壁などとは無縁な、鷹揚な時代ではありました。

昭和57(1982)年12月28日