ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

初めて間近に見たD61は解体寸前

蒸機現役時代、留萌本線には1度だけ行きました。ついでに立ち寄ったため時間の関係で遠方までは行けず、秩父別の陸橋で貨物列車を待ち構えるのが精一杯。そこで捉えた貨物列車の最後尾にあったのが予期せぬD61でした。んが、煙でナンバーもろくに見えない始末。そんなD61に再会したのが苗穂工場でした。よりにもよって解体待ちでありました。

イメージ 1
今ではすっかりお馴染になった駅西側の跨線橋です。工場構内を観察するには一番の場所です。その構内に1両の蒸気機関車が、解体待ちをしておりました。近づいてみるとD61 5でした。もう矢も盾もたまらず、近くにいた職員に頼んで中に入れてもらいました。このユルユルさが、今となってはと~てもありがたかったとつくづく思います。なお、この当時から苗穂機関区と苗穂工場は仲が悪かったとか悪くなかったとか。そのせいなのか、苗穂機関区から職員用の跨線橋を渡って工場に入るとメッチャ怒られました。

イメージ 2
でーろくいち!でーろくいち!国鉄蒸気機関車、最後の形式です。
イメージ 3
2軸の従台車が特徴的です。D50をD60に改造するにあたっては、色々と苦労があったそうですが、D61の場合はどうだったのでしょう。単に2軸従台車に交換するってだけではなかったのでしょうね。
イメージ 4
解体された廃材が積み上げられています。今のマンションが建っている付近には官舎があっただけですので、解体作業で音を立てても「うるさい!」などと文句を垂れる連中など一人もおりませんでした。
イメージ 5
機関車の後ろには、建て替え前の跨線橋の階段が見えます。階段部には壁と屋根がありました。札幌駅東側にあった跨線橋も似たような造りでした。どこもそうだったかな。
イメージ 6
貨車や積み上げられた廃材があって危険ですのでもうこれ以上は回り込めません。
イメージ 7
もう仕舞いにはキャブに上がってしまいました。旋回窓もガラス板もなく、スカスカです。その先には、解体中の蒸気機関車が見えます。もうあらかたバラされており、形式も何も分かったものではありません。

当時から鉄道部品をかっぱらう不逞の輩はあちこちの機関区に出没しており、実はこの時も苗穂機関区で撮影させてもらおうと事務所に行ったのですが、それが理由で撮影の許可は下りませんでした。安全上の理由とか言われましたが、蒸機亡き後にDD51でも撮ろうと事務所に行ったら、すんなり許可してくれたので、やはりそういうことだったのだろうと思っております。苗穂機関区はダメでしたが、代わりに苗穂工場で貴重な撮影をさせていただき感謝感謝です。正式の許可ではありませんが、決して無断で立ち入ってはおりませんので念のため。
高校1年生になったばかりの肌寒い春のことでした。

昭和48(1973)年4月29日