ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

中標津

高校2年生の3学期。高校入試で教室を使うために、その日は休校となることをいいことに、遠出を決意しました。狙いは標津線のC11。移動に使った列車は夜行の急行「狩勝4号」。いい写真が撮れるようにと願掛けしてB寝台を確保。
「からまつ」ではなくて「狩勝」だよ。ブルジョワジーだよ。中島みゆきだって松山千春だって「からまつ」だったのに・・・というのは今現在の感想。

初の夜行急行に慣れないB寝台でそわそわしていると、検札でやってきたのは知り合いの車掌さん。「A寝台が空いているから、使ってもいいよ」との有り難いお言葉に速攻でA寝台に潜り込みました。こりゃあ、幸先よかべ。国鉄時代、職員の家族などは、このような職権乱用でしばしばいい思いをしておりました。

撮影から帰るとすぐに期末試験があるので、殊勝にも持参してきた教科書を開いてはみるものの、全然頭に入りません。もとよりこうなることくらい最初から分かっていたので、無駄な抵抗は止めて寝ることにしました。B寝台でさえ興奮していたのに、A寝台だともう大興奮で全然眠れないかも!なんて心配などすることなく、気が付けば朝になっていました。

釧路から釧網本線普通列車に乗り換えまずは標茶へ。

イメージ 1
C11 133と思われる廃車体。
駅員さんに断って構内に入ると、休車となった133号機と思しきカマの他に176号機、224号機が蒸気を上げておりました。これから撮影する貨物の牽引機でしょう。

駅に戻り、標津線の列車に乗り換えて中標津を目指します。
中標津に到着早々、C11 227号機牽引の貨物列車が到着します。それを撮影した後、先回りして地図を見ながら至近の踏切まで先を急ぎます。

イメージ 2
オートカメラなので標準レンズでしか撮影できないのが辛いところ。

この後、本命の場所へ移動します。プチ俯瞰のできる場所なのですが、雪に足跡を付けたくないので遠回りしてその場所を目指します。線路と道路が離れた辺りで、少し高くなった丘の上に上がり、その雪原を線路に向かってひたすら歩きます。カンジキとか用意していないので、春先にありがちな上硬く中ゆるゆるな雪に足を取られて歩きにくいったらありゃしません。使いもしない教科書で荷物が無駄に重くなっているせいもあるのでしょう。当時は今みたいに体重が80kgもなく、55kgのスマート体型だったのにもかかわらず、ずぶずぶです。仕方なく四つん這いになって荷物を引きずったりもしますが、やはりずぶずぶで、尚更歩きにくい。でも根性出して、何とか目的地に到着しました。そして線路見ると、しっかり足跡が付いているではありませんか。何のために苦労したんだか。とほほ。

列車を待っていると、ずぶずぶ歩いてきた方向から年配の男性が現れました。で、鉄砲を持ったその人が一言。
「何だ、人か」
四つん這いになった足跡のせいか、クマと間違われていたようです。黒いヤッケを着ていたので、移動中に発見されていたら撃たれていたかもしれません。くわばらくわばら。

イメージ 3
C11 224号機が牽引してきました。見通しが良かったので、この時も望遠で撮影できないことが残念でなりませんでした。

帰りは線路に降りて、ずっかずか足跡を付けて戻りました。以下、省略。

この晩、釧路から「狩勝3号」に乗車し、翌朝、岩見沢で下車したのでありました。

昭和50(1975)年3月6日