ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

ローカル線の長大編成

GWの帰省中に、父親のチャリンコを借りて屯田へと向かいます。チャリンコ撮影は、津和野で「SLやまぐち号」の時以来、3年ぶりです。

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新琴似→篠路

メモ無しなので列車の特定はできませんが、朝の列車です。

私が小学生だった頃は、屯田といえば水田が広がる田園地帯という印象でしたが、急激な宅地化により水田は消失、一部、畑が心細く残る程度となりました。

 

札沼線を跨ぐ、新琴似跨線橋にやってきました。

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この国道231号線、通称石狩街道は、今の姿しか知らない人には信じられないでしょうけれど、この当時は歩道も中央分離帯もない、ごく普通の道路でした。

 

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拡大したので、いささか荒れていますが、10両編成なのは分かります。札沼線の10両編成は、鉄道雑誌の写真でその存在は知っていましたが、この写真を見るまでは自分で撮ったことすら覚えていませんでした。意識もせずにボ~ッと撮ったんだろうな。

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今や背後の畑地は全てマンションや住宅で埋まっています。ポプラの木もありません。

幅の狭かった創成川は拡幅されて、川沿いは緑地化整備されました。画面右の建物だけは当時のままの姿で今でも健在です。

 

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新琴似→篠路

すかさず道路を横断し、後追い撮影です。しんがりはキハ27。おそらく、石狩当別で一部を切り離して、その先へ進む車両と、折り返しの上り列車になる車両とに分かれるのでしょう。

左の空き地にはマンションが建っており、のどかな沿線風景は望むべくもありません。

さて、新琴似駅へ。

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新琴似←篠路(新琴似5番通り踏切)

列車の左手に転がる錆びた円筒状のものは、かつてここにあった油槽所のタンクです。貨物列車で石油類を運んでいました。因みに篠路には油田がありましたが、それとは関係ありません。

札沼線は、旭川地区と同時に、キハ40が最初に投入された線区です。国鉄末期に登場したキハ54も、最初は札沼線に投入されました。新車には初期不良が付き物ですが、万が一不具合が生じても、閑散路線でしたからダイヤに大きな影響を及ぼすことはなく、また苗穂工場ですぐに対処できるというのが投入理由だったのではないでしょうか。

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新琴似駅

画面右側の駅裏にはマンションが建設され、左側の駅正面とは歩道橋で行き来できるようになりました。駅にはまだ跨線橋はなく、下りホームへは構内踏切で線路を渡っていました。タブレットが健在だった頃です。

 

昭和57(1982)年5月4日かな