ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

石勝線開業前の根室本線

春休みというのは、宿題もな~んもなくて、自由気ままに過ごせるのが最高っすね。
で、鉄友二人と共に三人でまず赤平にやってきました。ただ、当時のメモには撮影データしか記載しておらず、何時に何ちゅう列車で移動したのかは分かりません。いえ、撮影データを追っかけてゆけば特定できるのでしょうけれど、そんなん面倒なのでその辺りは曖昧にしておきます。

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幌岡信号場←赤平 上り特急「おおぞら」

石勝線開業前の滝川~新得間がまだ幹線だった頃、「おおぞら」が長駆函館まで運用されていた頃、もう随分と昔のことになりました。そりゃあ、北海道にはまだブルトレはおろか、14系客車すら走っていない時代でしたもの。

この当時はまだ幌岡信号場があったようです。車がないと、そういう場所へ行くこともできず、なかなか自由が利きませんが、当時はなければないなりに楽しんでいられましたし、臨時運用の情報だってほとんど入手不能でしたが、逆に予期せぬ列車を撮影できた時に喜びはひとしおでありました。今のように情報が氾濫し、情報に踊らされて撮影に血眼になる様相を見るにつけ、何とも残念な気持ちになるのは老いてきた精神のなせるワザなのでしょうか。

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赤平のどこか 上り貨物列車

赤平や芦別といった炭鉱から石炭を専用貨車で輸送しておりました。牽引機関車はもちろんDD51です。蒸機を亡きものにした憎っくきヤツですが、いつまでも恨んでいても詮ないことです。

ところで、なぜにDL(またはEL)はつまらないのじゃろと考えると、一両一両の個性に乏しいからかなと。蒸機は、各機関区で色々な装置が後付けされたり改造されたりが普通にあって、形式が同じであっても1両ごとにディテールが違うのは普通でした。配置換えは全国区で、今に比べると頻繁にあって、その度にいじられまくるわけですから、尚更です。そういえば、蒸機には番代区分はあまりありませんでしたね。D51の1000番代、C59、C60の100番代くらいなものでしょうか。

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芦別駅 上り貨物列車

セキ車を連結して発車待ちです。セキの黄色い帯のところには「道外禁止」の文字が書かれております。低速運転しかできない、北海道封じ込め車です。画面右端に「ロセキ7143」と「ロ」が形式の前に小さく書かれています。「65km/h以下」の「ロ」からきている記号だそうです。

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芦別→上芦別 下り貨物列車・・・多分

この後、鉄ちゃん三人はおおむね線路伝いに上芦別まで歩きながら撮影しました。多分、1時間目ダイヤを持っていたのだと思います。1年間しか入会しなかった鉄道友の会で買った古いものなのか、どこかで手に入れた新しいものなのか、それとも鉄道ダイヤ情報を持ち歩いていたのか、もう記憶には残っていません。

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芦別←上芦別 上り急行「ニセコ2号」

この当時は日中、前照灯を点灯していませんでした。ですので、なんか物足りなさを感じてしまいます。列車種別は真っ白だし

列車は8両編成で、今なら長大編成となるところですが、この頃はどうってことない長さでした。なんせ13両編成ちゅう急行や特急がありましたからね。昨今のリバイバル列車では、塗色こそ国鉄時代を再現しても、編成長や形式を揃えるところまでは成りません。食堂車も付かないリバイバル特急を見ても、なんだかな~と古い人間は残念なため息を漏らすだけであります。

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芦別芦別 上り普通列車・・・多分

鉄友二人を入れての撮影。当時、こういう写真を撮ると、「やめろ!」と完全拒否されていました。ほんと、止めときゃよかったです。

多分この後、上芦別から乗車して富良野で下車。富良野駅ではカップ酒を少々食らいながらほろ酔い加減で深夜に「からまつ」や貨物列車なんかを撮ってそのまま夜明かししました。夜行列車があると、夜中でも待合室が開いているのがありがたかったです。
3月、夜中はマジに寒き時期でした。

昭和53(1978)年3月24日