ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

義経号快走

うっかり日付を飛ばしちゃいました。

昭和55(1980)年は北海道の鉄道が開業から100年目を迎えた年であり、それを記念した行事が幾つか行われました。そのひとつが義経号の里帰りで、静号との久々の逢瀬でありました。場所は手宮駅です。

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左が義経号、右が静号
義経号は動態復元されております。

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しづかちゃんのヒップが愛らしいです。

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ランデブー、ま、逢瀬の儀ということでしょうか。大衆の面前では逢瀬も何もあったものではありませんけど。

義経号、静号は、北海道で最初に導入した機関車の一員で、本州がイギリス製、九州がドイツ製だったのに対して、北海道は開拓の地らしくアメリカ製の機関車を採用しました。北海道にはアメリカから指導者が何人も来ていましたからね。
国鉄としての形式は7100形式で8両が輸入され、最初の6両には「義経」「弁慶」「比羅夫」「光圀」「信広」「静」の愛称が命名されましたが、残りの2両は無名のままでした。最初の形式ということもあってか、8両のうち3両が保存されており、もう1両が弁慶号になります。
日本最初の国産機関車は860形式で、2番目が手宮で製造された「大勝号」の愛称を持つ7150形式です。7100形式のコピーでしたが、僅か10か月で製造したといいます。ちゃんと走ったようですから、当時の日本人って凄いですねえ。

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義経号はちゃんと走行できます。構内に牛はいませんが鐘を鳴らしながら走ります。当時は生録にも興味があったので小型録音機「メタルデンスケ」で録音もしました。

今から見ればちっちゃな機関車ですが、明治の人々にとってはさぞや巨大な「くろがねの馬」に見えたことでしょう。その大迫力から、魚が怯えて逃げちまうべさという漁師からの強い抗議によって、小樽~塩谷~蘭島間では山側に線路を敷かざるを得なかったという事情が何となく分かります。

鎖国によって世界水準の文明から取り残されていた日本が、一気に西欧諸国と肩を並べるために、相当な無理や無茶をしましたが、そのエネルギーたるや凄まじいものであったことでしょう。

文明開化の香りをホンのちょっとだけ嗅ぎ、ふと視線を逸らすとそこはたちまち現代です。

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入換用のDD16です。DD51、DE10、DE15と、似たようなディーゼル機関車ばかりになってしまってつまんな~い。DD53にもさほど興味はなかったし、DD14は逆に奇妙な形で馴染めなかったし。今から思えば実に罰当たりなことを考えていたものです。

義経号は走行を終えて、車庫に入ります。

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えっさほいさ。
明治の頃もこんなんだったのでしょうか。ガードマンまでお手伝いです。

昭和55(1980)年7月17日 手宮