ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

蒸機時代最後の苗穂機関区訪問その2

はっきりいって、この頃のネガはキズだらけで修正がと~ても面倒くさいんです(なので手抜きしてます)。まったくこの頃の自分に「めっ!」と叱りたい気分です。と思ってよくよくネガを見ると、複数のスリーブに同じ位置で横方向のキズがビ~~~と入っていることに気づき・・・DPE屋が付けたキズやん!

修正しながら古い生録のテープをキャプチャしながら聞いているんですが、今L特急「いしかり8号」を聞いてます。旭川から乗車した車内の録音なのですが、若い旅行者が車内でラジカセを流していて、これが布施明みたいな声のヤツが歌うシャンソンっぽいアレンジの曲で、もう全然雰囲気に合わないし、聞いててイライラしてきます。せっかくの車内放送も台無し。歌入りなので外に出すことも能わず。でもこのテープを捨ててしまうのも勿体ないので、仕方なくファイルにして保存しておきます。
最初から流していればこいつらとは別の車両に乗ったのに、発車してしばらくしてから流すものだからどうしようもなくて。

なんて、ちょっと昔の音にイラってしながらこれ書いてます。
で、本題です。

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車庫の中には他にも見慣れぬナンバーがおりました。147号機は6号機と同様、和歌山からの転配で、6号機より一か月ほど遅れてやってきました。6号機も147号機も、顔をあっちへ向けていたせいか、撮影もしていませんし見てもいません。他の方の写真を拝見すると、147号機の正面ナンバーは、やけに低い位置に取り付けられているんですね。

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車庫の方から留置線を見たところです。車庫内同様、顔は外側を向けるのが標準のようです。顔を転車台中心の方に向けてくれると絵になるんですけどね。

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苗穂機関区に隣接する苗穂工場構内には、いつも廃車体が留置されています。これらをちゃんと撮影したいと思っても、工場では撮影させてくれません。職員用の跨線橋から無断で工場に入り、怒られた人も少なくないのでは。ごめんなさい。

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この91号機もお召し列車を牽引しています。
昔、DPE屋で焼いた時には、煙室扉がギラギラ反射して見辛かったのですが、フォトショップでいじったら、それなりに落ち着きいい感じになりました(あくまでも個人の感想です)。

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ヘルメット姿の少年は同行した級友です。特に汽車が好きというわけではなかったと思うのですが、行きたいというので連れてきてあげました。彼は蒸機の姿に何を感じたでしょう。今、どうしてるかな。

おや、今度は岸田智史が「モーニング モーニング」と歌っちょる。

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機関区での撮影を終えて、苗穂駅に戻る途中の踏切で客車列車を撮影しました。今はこの踏切はなく、この地下にアンダーパスが走っています。

昭和47(1972)年8月6日

これが実質、蒸機時代に苗穂機関区を訪れた最後となりました。この次に行った時には許可が下りなかったからです。「構内は危険だから」とその理由を言われましたが、実際には部品の盗難防止のためと思われます。小樽築港などの機関区では、蒸機の部品盗難事件が多かったのです。

おやまた布施明風のいやな歌が・・・。

では最後に、随分前にYouTubeにアップしたスライドショーでもご覧下さい。




(スライドショー)苗穂機関区に集ったカマたち