ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

釜谷臼へ行こう

天気が良かったからだったか、学校の帰りに札幌駅でちょこっと撮影した後、札沼線釜谷臼に行くことにしました。現在の、あいの里公園になります。

まずは懐かしの札幌駅0番ホームあたりの様子から。土曜日の午後のまったりした時間帯です。この頃は「まったり」なんて言葉は使っていなかったかも。
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この階段の下の立ち食いそばのメニューには「ラーメン」があったような気がするのですが、どうでしたかね。

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ESTAビルは鉄骨が組み上がり、その大きさが明らかになってきました。

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DD15 34が待機中。シールドビームがなければDD13と見間違えちゃいます。

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北側の構内ではダブルクロッシングの組み立て中。どこに使うのでしょう。またどうやって運搬するのでしょう。

新十津川行きの列車に乗り、釜谷臼で下車します。驚いたことに、若い人たちも含めて5人以上が降りました。若者たちは駅を降りて左の林の中に消えてゆきました。
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でも、元お姉さんがちょっと怪しい挙動。

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よっこらしょっと。案外軽やか。

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線路を歩いてどんどん北へ向かって行きました。多分、そのまま石狩川の橋を渡っていったのでないのかと思います。

しばらくしてから私も鉄橋へ行ってみました。
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待避場から。何やら太美の方からやって来た若者が3人、橋の上ではしゃいでいます。天気良いし、広々として解放感たっぷりだもの、若者じゃなくてもはしゃぎたくなるかも。青春映画のワンシーンのようでした。

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振り向いて釜谷臼駅の方です。建物が見えませんが、先ほど下車した若者の行く先から、線路の右側にある林の先には住宅があるのでしょう。

時間が合わず、列車を撮ることなく駅に引き返してきましたが、撮影にはなかなかいい場所であることが確認できました。
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待合室の中から撮っているのだから、待合室の外観も撮影しときゃいいのに、残念ならが撮っていません。保線の人たちが太美方面に歩いてゆきました。

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帰りの列車が到着しました。キハ22+キハ56+キハ40+キハ40の4連。

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おっとー、どこからともなく現れた少年二人。
この頃の子供って大抵野球帽を被っていましたね。自分はどうだったかな。大人もよく帽子を被っていたし。今はかつらを被っている人の方が多いかも。

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東篠路を過ぎた辺り。現在の拓北。

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篠路駅で列車の行き違い。

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今の百合が原を過ぎた辺り。農村と宅地とが入り混じる、のどかな沿線風景でした。それにしても、太陽をモロ画面に入れるのが好きだったのか、この後にもちょこちょこ真逆光撮影をやっております。教則本に書かれているセオリーだけが写真の撮り方ではありません。と、自己満足。でも当時のビデオカメラでこんな撮り方をしたら、撮像管が一発で焼き付いて修理代100万円に泣くことになりました。

昭和52(1977)年10月1日