ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

稚内桟橋駅跡で

会社の同僚を連れて真冬の稚内にやってきました。温暖な静岡県でぬくぬくと育ってきた彼に、北海道の気候の厳しさを思い知らせようという魂胆からでした。ま、それは半分冗談として、急行「利尻」の寝台車に揺られて到着した稚内は、マジで寒かった!風がびゅんびゅん吹き荒れていたし。しかし、見たこともない樺太へ、得も言われぬ郷愁の念から、かつての稚内桟橋駅まで行ってみることにしました。そこにはC55 49が保存されているし。

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が~~ん。C55 49がスッポリと完全にカバーに覆われておりました。因みに、機関車の置いてある場所にかつての線路が敷かれ、北防波堤ドームの中にホームがあったそうです。画面の右の外に港があり、線路との間に駅舎・待合室があり、樺太と行き来する乗客は、雨にも雪にもあたらずに乗り換えすることができたとか。

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機関車の前には説明看板がありました。

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ところどころ間違いが見受けられます。

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左から、港があって駅舎があって線路があって、でドームの中にホームがありました。当時はさぞや賑わっていたことでしょう。
南樺太、朝鮮、南満州、台湾と、調子こいて軍事力も行使して領土を広げ過ぎた結果、欧米列強国の反感を買って日本は孤立。国際情勢を全く読めない陸軍幹部の根拠なき自信と戦勝気分の下、日本は戦争へと突入して悲惨な目に遭うのでした。日本に二度と戦争をさせないという連合軍(≑アメリカ)の思惑によって制定された日本国憲法は、他国からの侵略を想定していなかったために、矛盾を抱えたままいまだに護憲だ改憲だとかまびすしい状況です。
C55 49は、24年間に渡り保存されてきましたが、潮風に打たれてボロボロとなり、平成8(1996)年に解体されてしまいました。合掌

昭和59(1984)年1月2日 稚内