ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

松山駅前で

高松から特急「しおかぜ5号」に乗車して松山へ向かいました。この日の宿は松山です。生憎の天気で列車の走行シーンは全く撮ることなく過ごしてしまいましたが、せめて松山では路面電車でも撮っておこうと考えました。

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どこの駅弁だったか。お昼を少々回っていたので少し遅めのお昼でした。

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15:14 伊予冨田駅
「しおかぜ4号」と行き違いしました。珍しくメモしておりました。

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松山到着です。天気は相変わらずパッとしません。

先に宿にチェックインして余計な荷物を置き、それから電車通りをブラブラ撮影したように思います。

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伊予鉄道の大手町線というそうです。路面電車が走ります。

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自動車もろとも大手町線を踏切で塞いで悠々とクロッシングを通過するのは、同じ伊予鉄道高浜線だそうです。郊外線の鉄道が市内線の軌道よりも優先しております。

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大手町駅で上下線の列車が行き交い、その間踏切は閉まりっぱなしです。

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この先にお堀があります。市民会館がありますが、左手の山の上には松山城が聳えています。

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電車の屋根越しに見えるでしょうか、お城が。恥ずかしながら、この写真を見るまで気づきませんでした。歴史に興味がないので、お城も対象外だったし。

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お堀越しに撮ってみます。梅の花が咲いていますが、この天気では冴えませんね。

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白鳥が二羽、優雅に泳いでいます。結構、肌寒かったような記憶があります。

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ストリートビューを見て驚きましたが、今でもこの姿で建っているのですね。愛媛県庁。風格がありますね。

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雨が止まないので、適当に切り上げて駅の方へ戻りますが、この場所はどこだか分かりません。

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大手町のクロッシングに戻ってきました。

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当時の松山駅デパートが、今はダイソーになっているようです。

お腹も減って来たので、どこかで食事をしようと思い、路地中をウロウロしていたら、数人の客引きに行く手を阻まれ、おまけに羽交い絞めにされてしまいました。「いい店あるよ~、なあ~行こうよ」などと甘ったるい声を耳元で囁かれましたが、「わり~、これから飯食いに行くとこ。腹減ってんだわ」とか言ったら、すぐに開放してくれました。手近な居酒屋に入って、ビールと何かを食し、いい気分になったところで宿に引き上げました。いよいよ明日は最終日です。

昭和59(1984)年3月19日

小松島港駅の記事と今回の記事に掲載した写真は、サクラクロームで撮影したものです。コニカミノルタの前のコニカの前の小西六の商品名で、ネガフィルムはサクラカラーといってました。小西六は国内で初めてカラーフィルムを製品化した偉大な会社で、最初はシェアの上でフジカラーを圧倒していたそうです。また、カメラの分野でも世界で最初にオートフォーカス機能を搭載するなど、実に先進的な企業でした。
まあ、そんな企業の歴史をここで語っても仕方ありません。
で、このサクラカラーですが、天気のせいもあったのかもしれませんが、コダクロームに比べると品質は残念な気がしてなりません。鮮鋭度、発色とも。富士フィルムがプレビアやブロビアを開発して、コダック製品を追撃するにはまだ時間がかかりますが、当時のフジクロームもサクラクロームと同じ程度でしたから、これはこれで良かったのかもしれません。でもフィルムの品質とは関係ありませんが、この撮影したフィルムのマウントをバラすと、全てのコマで切断箇所がずれていて、隣のコマの端を食っているのです。マウントにすると隠れて見えなくなりますが、何か腹立たしい。おまけに、マウントの接着糊がフィルムに付着しているし。10年前のフジクロームかよ。(1984年当時、フジはプラスチックマウントを使用してました。糊不要で使い回し可能な優れもので、コダックの紙マウントもカスに思えます。)