ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

C55に会いに行った

中学2年生の冬、鉄道好きな元同級生(クラス変えで別のクラスになった)が、「C55が一番好きだ。水かきの付いたスポーク動輪が格好いい」とよく絶賛していたことがず~っと気に掛かっていたので、その魅力の一端にちょっとでも触れてみようと思い、いきなり正月に現物を見に行くことにしました。
当時のメモは皆無で、時刻表もその少し後のものしか手元にないので、いささか想像めいた部分もありますが、そこは大目にみて頂きたいと思います。

08:30、急行「かむい2号」(803M)で札幌を発ちました。白石を過ぎると右手に原野が広がり、その中に白く不気味に聳えるように高架橋が姿を現しました。なんでこんなナンもない所に立派な高架橋を作るんだべと、無知な少年は不思議に思いましたが、それが今の千歳線です。
機材は、父のカメラと兄のラジカセです。写真と生録に挑戦しようという魂胆です。カメラには奮発してカラーネガを入れてあります。この当時はカラー写真はまだそこそこ高価で、特別な行事の時に使うものという意識がありました。しかし、冬の蒸機を撮影するのに、プロや熟練したファンの中には、あえてモノクロで撮影する人も少なくありませんでした。蒸機にはグレースケールの美というものがあったからでしょうね。一方、私はといえば単純に安いからという理由だけでモノクロを主体に使っていましたが、やはり記録として残すのならカラー絶対信者です。
また、蒸機の魅力はその発する音にもあって、生録ブームの立役者でもありました。ブラストや汽笛の音は、得も言われぬ郷愁を誘います。特に、人間の呼吸にも似たブラスト音は、蒸機に対して人間臭い愛着心をもたらすものでした。それを自分でも記録したいということで、ラジカセも持参したのです。けれど、機材はモノラル仕様なのがちょっと残念。もともと兄が英会話を勉強するために買ったものでしたからね。仕方ありません。当時はカセットテープも電池も高かったですよ。雑誌「国鉄時代」の付録DVDの中には、しばしばフィルムで撮影された昭和40年代の鉄道が収録されていますが、映像を発表する常連さんには相当の財力がなければ、あれだけの量を撮影することはできなかった筈です。カセットテープが高い、などとみみっちいことをボヤいている中坊には遠い世界でした。

10:21、旭川(当時の駅名は「あさひがわ」)に到着し、早速、宗谷本線のホームへ向かうと、すでに稚内行321列車が入線していました。牽引機はC55 30。おお、流改ではないか。無知な少年も、その機関車がかつて流線形として製造されたことくらいは知っていました。

さて、ようやく写真。
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いい大人が正月早々、汽車を追いかけています。大学生がマンガを読んでいるとバカにされた時代です。一方で、学生運動が反米を叫びながら暴力組織へと変貌し、内ゲバでの殺人事件が発生したりもしました。楽園を夢見て北朝鮮に逃げた赤軍派の連中は、かの国で一体何を見たのでしょう。気狂いの連中には気狂いの国はお似合いだったか。

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水かき付きスポーク動輪。ホントだ。水かきがある。といっても水かきなんかじゃなくて、スポークの補強なのです。C57とD51以降、従来のスポーク動輪はボックス動輪にとって代わりますが、8620やC51の古い機関車の中には、ボックス動輪に履き替えた機関車がいました。結構、いやかなり変な感じ。

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流線形時代の面影を残すキャブ。丸味を帯びた屋根形状と、斜めに切り欠かれた出入り扉付近。密閉キャブのはしりです。

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主連棒に表記された部材名。本当ならば手宮に保存される筈だったのに。

そして乗車です。
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最初は大人しく客室内に居ましたが、蘭留を過ぎていよいよ塩狩峠に差し掛かると矢も盾もたまらず、デッキに出ました。

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出入り扉を開けて前を伺います。冷たい風がビュンビュン顔面に吹き付けますが、全然気になりません。

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後ろを振り返ると補機であるDD51らしき姿が、雪煙の中に微かに透けて見えます。今から見れば、とても危険な撮影ですが、走行速度は遅かったし、恐怖感は全然ありませんでした。どうせ落ちても雪の上だし、くらいしか考えませんでした。
でも車掌さんが現れて「危ないから止めなさい」と注意されて、一旦は素直に言う事を聞いて扉を閉めますが、車掌さんがいなくなると再び扉を開けて「きんもちええなあ~」。
ただ、生録もしなければなりませんから、いつまでも調子こいて扉を開けていたわけではありません。

そして名寄到着。ここで下車します。あっという間の3時間の旅でした。
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旭川行きの324列車(稚内発)と列車交換です。C55 50の牽引で、こちらが先に出発するのを見送ります。見返っている人は誰でしょう。なんでこんな構図で撮るかなあ。撮影はここで終わりです。まだフィルムは残っていたのに、なんかすっかり満足したからでしょうか、C55 30の発車シーンは撮影していません。

この後、急行「なよろ1号」(816D)で札幌へ帰宅したのですが、父が専務車掌として乗務していました。車内は混んでいたので、父は職権乱用を発動し、キハ22の車端部にある緊急用の狭苦しい指定席に座らせてくれました。国鉄一家とはよく言ったもので、同じ職場の家族だったりすると、車掌さんはよく便宜を図ってくれたものです。
そんな車掌としての父の働きっぷりを、車内放送を生録して記録に残したのですが、いつの間にかそのカセットテープには「ショッキングユー」が上書き録音されていて、私がショッキングブルーになっちまいました。こら!兄貴!
でもC55の生録の方は無事でよかったよかった。

昭和47(1972)年1月1日