C62 3が復活した時には興奮しました。その撮影のために中版カメラを買いビデオカメラを買いベータカムを買い、とうとう会社を辞めるほど撮影にのめってしまいました。無謀ですね。お陰様で貧乏生活を謳歌しております。
客車を留置線に移動した後、切り離されたC62が再び転線します。
今は、奥に見えるチキも非常に気になります。陸橋の下あたりでカメラを構えています。
行ったり来たりを繰り返し、転車台に到着。苗穂運転所のものに比べて桁高が低く、華奢に見えます。もともとは9600あたりが使っていたのでしょうね。
過去にC62がこの転車台に載ったことはあったのでしょうか。
転車台の回りには見学者の荷物が無造作に置かれています。写真には写っていないだけで、実際には見学者が大勢見守っています。
転向終了。
で、今日の本題はこれではありません。この後、下り「C62ニセコ号」撮影のために場所を変えます。
残り少ないコマを消化するためのカットです。なんかもうどうでもいい写真なのですが、よく見ると、中間車はキハ48です。動態ブレを起こしていて番号までは読めませんが、ここにもキハ48が入っていたというのは、自分としては意外な発見でした。余談ながら、この当時はキハ54も山線に入っており、初期の頃のキハ54の活躍を語る上で、札沼線や江差線のキハ54とともに、忘れられないシーンです。
イベント列車など、みんながカメラを向ける被写体は腐るほど記録されるでしょうけれど、こうした日常的な列車はあまり見向きもされず、記録に残りにくいものです。残ったところで気にかけるファンは少ないでしょう。その時限りのイベント列車だとか、人知れず走る試験列車・事業用列車などの記録も大切ですが、その時代を知る上ではこうした日常も大いに記録されるべきではないのかと、最近になってつくづく思うのです。「なら、お前がやれよ」との声が聞こえてきそうです。はい、ごもっともです。
昭和63(1988)年8月16日
また冬に逆戻りです。外は一面の雪景色です。寒いです。雪掻きするほど積もってはいませんが、いまいましいです。若い頃はウキウキして撮影に出かけたものですが。若い人は撮影にGO!ジジーは布団で丸くなって寝ます。