ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

普通の最後

11月も下旬ともなると、冬の足音が聞こえるというもの。撮影での防寒は必須です。

国鉄は年内の蒸機撤退などの合理化に関して、労使間で話し合いが続けられるも、そのたびにストのおまけつきで、国民はもううんざり。蒸機もその度に機関区で待機となり、ある意味延命措置ではあるけれど、なんだかな~。
そんな中、11月13日には、実にNHKらしい(金に糸目をつけない)番組が道内で放送された。「ほっかいどう7:30」という地方番組で、その週のタイトルは「さよなら汽笛」。ああ、メインテーマが頭の中で流れ出すと涙も出てくるぞ。室蘭発岩見沢行きの225列車を追跡取材したものである。牽引機は所定のD51に代えてC57 135が抜擢された。そこはかとなく様々な内部事情があったのだろう。
足回りやフロントデッキに取り付けられた固定カメラの他、空撮や国道での並走撮影、そして客車内、キャブ内での肩載せカメラといった具合に、何台ものカメラを駆使してビデオ収録が実施されたのであるが、これは全国で初めての快挙であった。当時のビデオカメラは大掛かりな装置であり、民生用のビデオカメラはまだ存在していなかった。録画機としてはU規格という、後に業務用へと用途を変更したビデオデッキはあったものの、ベータマックスもVHSも未来のマシーンであった。TVドラマも、ビデオ収録は室内のみで屋外ロケはフィルム撮影が当たり前という時代である。そんな時代に、おそらく発電機も用意したであろうビデオ収録は、今にいたる1億総ビデオカメラマンの時代への先駆けとなったと言えよう。
番組にかかった予算は、民放ではありえないほどだったと想像する。(ビデオカメラが1台数千万円!)ありえないといえば、TV番組としてはナレーションがないというのも異例であった。この番組は後に全国でも放映されたと聞くが、セルビデオ化もされており、多くのファンの目に留まり感動を広げたことと思う。

実はこの収録では別の番組も制作されており、それが山口百恵さんと加藤芳郎さんが225列車に乗車して旅をするという内容のもので、こちらはおなじ11月の24日午後7時20分から全国放送された。スポンサー付きの観光名所案内、グルメ紹介などとは無縁な素朴な旅番組だったと記憶している。しかし残念ながらこちらはセルビデオ化されておらず、幻の番組となっている。

そんな蒸機の終末に向けて、いやがうえにも気持ちは高ぶり、22日の晩に家を出ました。行先は追分。クラスメートのS君からは、またまたデンスケを、鉄友のK君からもまたまた三脚をお借りしてきました。防寒にはコートを2枚、足元は靴下を2枚重ねた上で長靴です。普段は履かない股引もちゃんと履いています。雪のない時期に、札幌駅の中をこのスタイルで歩くのは、年頃の男子にはなかなか恥ずかしいものがありますが、背に腹は代えられません。居直ります。でも誰も気にしてなんかいないのですけどね。
急行「かむい7号・ましけ」で岩見沢へ出て、そこから乗り換えます。

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追分機関区
C57 38が牽引する232列車で追分に到着。雪はありませんが、思った通り、とても寒い。でもこの寒さが、吐き出される蒸気を美しく演出してくれるのです。
録音からスタートしますが、照明に映し出される光景を黙って見ているのはあまりに勿体ないので、撮影にも取り掛かります。

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5495列車 D51 96  8463列車 D51 146
2本の下り列車が、くつわを並べて発車を待ちます。かけがえのない「当たり前」の光景です。

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5998列車 D51 60 光跡は分かりません
駅の南側へ移動します。あまりこちらには来ないのですが、寒いので少しでも体を動かしておきたいという事情もありました。
北海道にはナメクジが多く配置されていますが、最後までその姿を見られるのはうれしい限りです。

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5279列車 D51 1072
写真の出来はともかく、バルブ撮影の写真には、実際に見た時には分からなかった、格別の味わいがあります。

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北側での入換です。車止めの辺りで撮影していますから、暴走でもしない限り大丈夫です。左手に室蘭本線と夕張線の線路が走っています。この場所での録音は、平行する国道を走る車の騒音を拾ってしまうのが悩ましいです。

この時で午前1時過ぎでしょうか。寒さは一層きつくなり、睡魔も襲ってきます。空の部分に見える横スジは現像後のミスで、水洗いした後に乾燥する際、汚れたスポンジで拭いたためのものでしょうか。レタッチが大変です。


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多くの人が、入換機をバルブ撮影されています。カラー写真は文句なく美しいのですが、モノクロにはモノクロの美しさがあるのではないでしょうか。

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5472列車 D51 149
また南側に移動したようです。角度的には線路を横断して機関区側の方から撮影しているようです。暗闇に乗じて、安全の範囲内でやりたい放題していたようです。

ここでフィルムが終わり撮影は一旦中断し、録音だけ続行しますが、今となっては寒さや睡魔との闘いもあまり覚えていません。

夜が明けるとD51が牽引する824列車で岩見沢へ出て、そこから急行「狩勝1号」で砂川へ向かいますが、それまでの記憶は全くありません。

今時のSL列車では味わえない本物の汽車は、人知れず昼夜を問わず日本中を駆け巡っておりました。非効率に、煤煙をまき散らしながら。すでにこの時、蒸機が残っていたのは北海道だけ。それも追分、岩見沢第一、滝川の三機関区だけで、運用は歌志内線、上砂川支線、室蘭本線、夕張線だけでした。日本中からSLファンが北海道に集まり、最後の雄姿をフィルムに録音に収めようと必死でした。その気持ちの高ぶりは、現在の鉄道ファン以上であったように思います。血気ばんでの怒声罵声は当たりまえ、流血騒ぎもあったと聞きます。列車妨害も部品の窃盗もありましたが、国鉄の現場の方々は「困った」と言いつつも、やさしく対応してくれました。本当は許可されていない駅舎や跨線橋で夜を明かした人も結構いたようです。私は夜には「徘徊」していたので駅寝も跨線橋寝も未経験です。

昭和50(1975)年11月22~23日 追分駅