ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

循環急行「いぶり」乗車

昭和55(1980)年といえば、長年欲しかった「デンスケ」を入手した年です。「デンスケ」とはSONY製の、屋外に持ち出せる電池駆動のポータブルテープレコーダーのことです。放送局の街頭インタビューなどでよく使われたと聞きます。私が入手したのは、その年に発売になったばかりの「メタルデンスケ TC-D5M」というもので、メタルテープに対応した機種でした。人気商品だったせいか、注文してから入荷まで半月以上待たされました。大学の生協で購入したので、何割引きかで買えたのはありがたかったです。今の物価に照らし合わせたら、20万円は下らない価格だと思います。

蒸機現役時代には、級友から大きなデンスケを借りて2度ほど生録しましたが、このメタルデンスケは当時のそれに比して驚くほど小さくなりました。その小ささを生かし、あるアーティストのコンサートをちゃっかり録音したこともあります。大きな教科書の箱の中に隠し入れて持ち込んだのです。
義経號の自走シーンも、このメタルデンスケがしっかり音を記録してくれました。もっとも、当時はメタルテープがまだ高価でしたから、クロムテープが精一杯でした。SONY製テープは割引があまりなかったので、使用したのはTDKかFUJIのテープが多く、たまにスコッチやBASF、maxellなんかを使っていました。

その年の10月のダイヤ改正では、循環急行「いぶり」が廃止されることになり、その車内放送を何とか録音したい気持ちに駆られ、廃止一週間前の秋分の日に乗車しました。外回り(山手線と同じイメージで右回り)と呼ばれる千歳線室蘭本線胆振線函館本線経由です。

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この日、外回り「いぶり」は2両で、キハ22の若番車が充当されました。行先サボには左から「札幌ー苫小牧ー伊達紋別倶知安ー札幌」と書かれています。伊達紋別までは「ちとせ8号」に併結されます。
廃止を惜しむのは一般の人も同じで、廃止間近とあって、早くから家族連れなどがホームで列車の入線を待っていました。今と違って、鉄ちゃんはあまり目立っていない印象でした。当時は、鉄ちゃんよりもオバサンパワーの方が勝っていたし。

生録がメインだったので、写真はほとんど撮っていません。少しだけ奮発してSONYのBHFを5本くらい用意して乗り込みました。クロムテープはおろか、AHFを買う余裕もありませんでした。というのも、この後には更に長時間な生録を予定していて、テープを10本以上使うことになっていたからです。

冴え亘る秋空の下、紅葉に染まる胆振線の沿線風景に、車内では乗客の歓声が何度も沸き起こりました。ブラインドを下している乗客には「上げて下さい」というリクエストの声も。車掌さんは、手作りの乗車証明書を「何枚ご入用ですか」と枚数制限なしの大盤振る舞いで配っていました。途中、エンジントラブルがあって若干遅れが出たようですが、スカスカダイヤですので、他の列車に影響はありませんでした。やがて倶知安に到着です。
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まだ生協はありません。
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倶知安駅 836D 伊達紋別行き
「いぶり」は倶知安に到着すると、ほどなく函館本線のホームに転線します。その転線したホームから見た、今は使われていない胆振線のホームに普通列車が入線したシーンです。

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構内には車掌車や救援車の姿がありました。スヤ32という保健車までありました。

車内で発車を待っていると、ホームから子供の大きな叫び声が響き渡りました。目撃した乗客の話では、子供がうっかり駅そばを腕にこぼしてしまったようです。羊蹄の水で冷やしたと思いますが、その効果はどうだったのでしょう。

札幌に到着したのは陽も暮れかかった17時半過ぎ。無事に生録を終えました。
その時の音は、列車内の様子を今でも鮮やかに再現してくれます。これに気を良くして、数日後には小樽の駅にいました。

昭和55(1980)年9月23日