ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

車両写真-20 札幌運転区-02

前回の続きになります。札幌運転区を敷地外ギリギリの場所から覗きます。実際のところ、ギリギリっちゅうよりも、しっかり足を踏み入れている感がなきにしもあらず。きっと、ろくろ首並に体をビヨ~ンと伸ばして撮影したのでしょう。



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幾つかの書籍によると485系の運用は6月で終わったと書いてありますので、この時にはすでに「いしかり」の運用を外れていたかもしれません。

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スハ45 11
光漏れです。当時は、貰って来たパトローネに自分でモノクロネガフィルムを巻いていたので、こういうことはよくありました。パトローネが使い古しなので、隙間が出来ちゃうんでしょうな。ダメじゃん。

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スハ42 11
オハ35の増備車ですが、乗り心地改善のためにTR40を履かせたところ、自重が増して別形式になってしまいました。後に軽量化改造によりオハ36になったものもあります。北海道仕様の500番代車もありますが、道内配置の半数は本州仕様の0番代車でした。なんで?11号は函館車。

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スハフ42 518
急行用スハ43の緩急車、北海道仕様車。

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マニ60 243
マニ60は様々な車両から改造、または鋼体化改造(形式60番代がそれを意味します)された形式ですが、200番代車は鋼体化改造によるもので、ナロ20738の台枠を流用して製造された荷物車です。青函航送用と北海道用とがあったそうです。

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スユニ61 508
こちらは複数の形式からの改造車になります。508号の種車はスハニ62 10(←オニ26786の鋼体化改造車)です。

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スハネ16 515
車体は10系客車ですが、台枠や足回りは旧型客車のものを流用しています。そんな関係で、オハネ12よりもちょいと車長は短めです。非冷房で登場したオハネ17 167(←スハフ34 10)に冷房を搭載してスハネ16 167となり、それを北海道仕様に改造したのが515号です。

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スハ45 16

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スハ45 17
湧別町の計呂地交通公園にC58 139と共に、チョコレート色に塗装された状態で保存されています。スハ45にチョコレート色はありませんでしたけどね。ウィキの「計呂地交通公園」では6号となっていますが、一体どういうことでしょう。

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DD51 1049
説明不要ですね。

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スユ13 2029
基本はオユ12ですが、電気暖房搭載によりスユ13となりました。ですからスユ13には2000番代車しか存在しません。右手奥にはマヤ34の姿が見えますが、この時には気づかなかったのか、撮影していません。

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スハ45 6
お前は計呂地にいたのか、どうなんだ。

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オヤ31 32(←オシ33 105←スミ43 1←スハ32 331←スハ32994)
建築限界測定車。矢羽根は閉じた状態です。走行シーンを見るチャンスは滅多にありません。

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スハフ32 404
狭窓が並ぶ車体は、いかにも古めかしいですが、大型の20m車体は堂々としています。

昭和55(1980)年6月29日 札幌運転区

オヤ31 32の過去の形式であるスミ43 1は、戦後の占領下における進駐軍向けの軍務車で、「ミ」はミリタリーの意味でしょう。ラジオ車といい、通信関係の機材を搭載していたそうです。GHQ内の組織であるMRS(鉄道輸送司令部)とCTS(民間運輸局)は、国鉄に対して好き放題やってくれました。勝てば官軍、まさに勝者こそが正義。ふん。けれど戦前生まれの人たちは気骨がありました。表向きは言われたことを素直にやっているように見せつつも、実際にはそうなるように誘導していたようです。60系客車が誕生したのもそんな経緯によるもので、新車製造を禁止されたために、改造名目で誕生したものです。GHQとは関係ありませんが、東海道新幹線の建設にあたり、国鉄世界銀行国際復興開発銀行)からお金を借りますが、その時の理由が「日本は斜陽傾向にある鉄道を建設するのだから開発途上国である。新幹線は既存の技術だけで作るものであって、目新しい技術は何もない」というもので、そのしたたかさには頭が下がります。