ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

録音

当時、寝台鈍行列車と云えば「山陰」(京都~出雲市)、「長崎」(門司港~長崎)そして「はやたま」(天王寺~亀山)の3本が走っていました。残念ながら北海道の「からまつ」(小樽~釧路)はすでに消えておりました。「長崎」は学生時代に乗車していたので、残るは「はやたま」だけが未乗車でした。しかし夏休みの季節、この手の列車が混雑するのは自明の理。それだけに早めにホームで並んで列車をひたすら待つのは必要最低限の儀式でありました。といっても、和田山から大阪に到着し、天王寺にやってきたのは20時過ぎ。「はやたま」の発車まで2時間半以上もあります。じっとしているのも何かヤなので、夜の環状線で時間を潰し天王寺駅に戻ったのは発車1時間前でありました。まあ、ホームには居るわ居るわ。でも、座れないほどではありません。列車が入線し無事に適当に腰掛けて録音機を回すものの、車内放送はほとんど聞こえませんでした。もうこうなったらふて寝するしかありませんが、連日の乗車で(居眠りばかりしていたのにもかかわらず)疲れたのかあっさり白川夜船を漕いだのでありました。気づくとどこかの駅。

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スユニ60 18
どこの駅でしょう。原版は例によってかなり暗く、しかもぶれているし。DD51は写していないし。新宮駅かなあ。

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寝台特急紀伊」 熊野市駅
これはメモをしておりました。「紀伊」は東京と紀伊勝浦とを結んでおりました。東京方では一度も見ることなく昭和59(1984)年に廃止されています。

その後、終点の亀山から奈良へ出て、京都、大垣と乗り継ぎ、浜松からは沼津行に乗車しました。浜松発車時点ですでに21時半。録音テープもいい塩梅で消費されて、最後の10本目のB面へと進んでおりました。そんな時、台風の影響で列車は徐々に遅れだし、車内アナウンスの車掌さんの声も、心なしか不安げに聞こえてまいりました。そして清水まであと一駅という草薙駅で、とうとう動かなくなってしまいました。巴川が危険水域に達してしまったからです。日付が変わろうとしていました。
暴風が停車中の車体を揺らし、激しい雨粒が容赦なく窓ガラスを叩きます。そうした中での不安げな車内アナウンスは貴重かと思って、ついつい長回ししてしまったのです。で、とうとう10本を使い切ってしまいました。でも、この状況は何としても記録したい、そんな思いから、1本目のA面を潰すことにしました。最初の目的であった飯田線全線録音制覇をあっさり捨ててしまったのです。時折、車内アナウンスが「ただいま、タクシーが1台やって参りました。ご利用される方がいらっしゃいましたら車掌まで云々・・・」と流れます。閉ざしたドアの開閉があるからでしょう。いつ動くのだろうかという不安もさることながら、車内アナウンスのタイミングを外さないように気は張っています。夜中なのに「広報清水」の町内放送も聞こえてきます。「出雲」は菊川で、「あさかぜ」は藤枝で、「瀬戸」は焼津で停車しているようです。テープは更に1本目のB面へと突入です。

結局、巴川の流量が減り列車が動き出したのは4時20分頃。清水到着は4時半頃でした。駅前にはタクシーが止まっておりましたので、すぐに乗って会社の独身寮へ。睡眠時間を削るのは辛かったですが、まる3日間風呂に入ってなかったので、ひとっぷろ浴びてから寝ました。2時間も寝ていなかったのに、翌朝の仕事は結構ちゃんとやったかどうかは定かでありません。

因みにこの時の台風で、富士川に架かる下り線トラス橋梁が橋脚ごと流されてしまい、復旧するまでの数か月間、富士~富士川間ではタブレット閉塞を行っておりました。

10本の録音テープは全て音声ファイル化しておりますが、いまだちゃんとは聞いてはおりません。

昭和57(1982)年8月1日(写真)

つまらん文章ばかりで写真が少ないので、おまけです。
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?列車 倶知安→比羅夫 昭和58(1983)年5月2日
線路際を歩いていたら青大将を踏んづけてしまい、蛇も自分もびっくりしたよ。

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「まりも」 札幌駅 昭和61(1986)年10月12日
いよいよ消え去る「北海」と「ニセコ」を撮りに帰省しておりました。

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「宗谷」 札幌駅 昭和61(1986)年12月30日
ヘッドマークがあったらなあ・・・

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北斗星5号」 札幌←苗穂 昭和64(1989)年1月7日
前にアップしていたかも。