まだ車を持っていなかった頃、移動手段は専らJRでした。当時、夕張支線の清水沢駅には、親しくさせていただいている駅員さんがいらしたので、月に一度くらいのペースで遊びに行ったものです。たまに切符も買いましたよ。
14:36発 千歳発夕張行きの2637D
この日は一旦小樽へ立ち寄ってから折り返し千歳へ向かい、千歳からは夕張直通の普通列車で清水沢に向かいました。清水沢到着は16:12でした。清水沢駅では1枚も写真を撮っておらず、メモによれば、完成したばかりの自主制作ビデオ作品を駅員さんにプレゼントしたようです。今はほぼ絶滅状態のVHSです。帰りは追分で乗り換えて、岩見沢経由で帰宅しました。日曜日だったので「1日散歩切符」を使ったのかもしれません。
平成9(1997)年12月7日
21:33 2645D
夕張行きの最終列車。
夕張から列車が折り返してくるまで、駅務室で待たせていただきました。この日は、10年以上も前に上野駅近くのカメラ店で購入した中古のCanon F-1で撮影しました。Nikon Fシリーズと並んで憧れのカメラでしたが、買った当初からシャッターむらが酷い代物で、すぐに店で無料修理してもらったものの、それでも時折不具合が出るのでほとんど稼働していませんでした。でも電池なしで撮影できるので予備機としてずっと持ってはいました。今はとっくに手放してありません。
22:05 2644D
夕張支線の最終列車です。友人と二人だけの撮影会でした。この頃は臨時列車が入線する時以外、撮影に訪れるファンなどほとんどいませんでした。それでも、北海道新聞でこの駅が紹介されてからは、休日ともなるとタブレット交換や腕木式信号機見学のため、時折ファンが来るようになったそうです。確かこの頃はまだ、待合室ではKIOSKが営業していたように思います。
平成9(1997)年12月16日
またまたヤフオクの話で恐縮です。昨日もまた落札した商品が届きました。「鉄道ピクトリアル」の1976年1月号から12月号までの12冊です。1976年といえば、国鉄の定期運用から蒸機が姿を消した年です。近代化の大きな到達点だったとも言えるでしょう。この後、幹線での電化が更に進み、優等列車は気動車から電車への転換が促進されます。また車両の老朽化に伴い、旧型電機・電車や古い気動車や客車たちもどんどん新型車に置き換えられるようになります。一方で、合理化反対を旗印とした順法ストという名の違法ストによって国民からの信頼を失墜する国鉄は、せっかくの大幅な運賃値上げも焼け石に水状態となり、経営悪化は増幅するばかりでした。真っ赤に染まる国鉄を尻目に、蒸機を失った鉄道ファンは、今度は旧型車両やカラフルな近代車両を対象に、まだ国鉄の明るい未来に希望を持ってカメラを向けていたのでした。
因みに昭和50年度の収支係数は
美幸線:3233、深名線:2668、白糠線:2243
などと書いていたら、今しがた、また商品が届きました。同じく「鉄道ピクトリアル」の1975年1月号から12月号の12冊です。この辺りの時代は、新車と廃車、新線開業と廃線とが同時並行で急進していた、まさに激動の時代だったような気がします。