ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

東京に雪が降った日

昭和59(1984)年1月21日 上野駅

東京で雪を見たのはこの日が初めてだったかもしれません。その日は金曜日で、仕事を終えると速攻で一旦会社の寮に戻った後、着替えるとカメラを抱えてすかさず上野駅へと向かいました。上野駅の線路には雪が積もり、着発する列車も雪まみれになっています。今まで見てきた上野駅とは全く異なる光景にちょっと感動を覚えました。

これに火が点き、翌日は東戸塚へ行きました。きっとブルートレインも雪まみれになって戻ってくるんじゃないかと。しかし、線路に残雪はあるものの、やってくるブルトレはどれもこでも普通の姿。

昭和59(1984)年1月22日 保土ヶ谷東戸塚

な~んだ、と気抜けしているところに何故だかファンがどんどんやってくるではありませんか。何か来るのか?と思っていたらこんなのが通過していきました。

場所が悪く、正面気味でしか撮影できませんでした。「サロンエクスプレス東京」です。予期せぬ列車に嬉しくもあり、場所選定を誤ったことへの無念さもありで、悔いの残る撮影となりました。雪景色の中でEF58に出会ったのは、この時1回きりでした。

放置トンネル

昭和58(1983)年2月11日 9:38 小岩川←あつみ温泉 白鳥2号

実は前回の記事は、今回の画像と合わせて書く積もりだったのですが、この画像が見つからなくてあのような記事になってしまいました。ところがゆうべ、たまたまその画像が見つかったので、今日はそれを使い、別記事としてアップします。

プチ俯瞰です。あつみ温泉駅からテクテク「道路」を歩いて、手頃に俯瞰できる場所があったので、まずはそこで撮影しました。ちゃんと国土地理院5万の地図を持参です。しかし雪が次第に強くなってきたので、これ以上の俯瞰は無理と諦め、前回の記事にある橋梁付近での撮影と相成った次第です。ところが雪が弱くなり視界も良くなって、背後の山から俯瞰したいな~と思ったものの、次の撮影場所へ移動する予定だったので、色々と自分に納得いく理由をつけて俯瞰撮影は断念した次第。

ところで左側のコンクリート構造物が邪魔な存在です。いっそ、この上に上がればスッキリ撮影できただろうに、と思うのですが、どうしてそれをやらなかったのかはもう覚えていません。実はこのコンクリート構造物はトンネルのポータル(出入口)です。他の写真を見ると、トンネル付近に重機がチラッと写っているので、工事中だったので立ち入りを控えたのかもしれません。でなければ、トンネルの上に確実に上がっています。で、このトンネル、ストリートビューで見ると、そこへつながるものは何もなく、今でも山の中からポカンと口を開けているだけのようです。ウィキをググったら「宮名トンネル」ということが分りました。羽越本線の延長上にあって、複線化と直線化により線路容量の増大と時分短縮が目的だったようです。しかし、莫大な工事費に対して、その効果は少ないということで工事はいまだ中断したままのようです。ウィキの「住吉山トンネル」はもうひとつの放置トンネルで、小岩川駅付近にあります。

住吉山トンネル - Wikipedia

俯瞰したいけどできなかった

昭和58(1983)年2月11日 10:26 小岩川→あつみ温泉 1891列車 EF81 69

貨物の列車番号と通過時刻を知っていたということは、「鉄道ダイヤ情報」を携行していたのかもしれません。

あつみ温泉駅のすぐ南側を流れる温海川に架かる橋梁付近での撮影です。次の移動する列車まで、あまり時間がなかったので手近な場所で撮影しました。トンネルの山の上方には伐採された斜面が見えます。あそこなら見晴らしがいいだろうなあ、行きたいなあ、でも時間がないなあ、鉄橋を渡らなくちゃいけないなあ、斜面が急そうだなあ、やっぱ無理だなあ、などと否定的なことばかり考えて自分を納得させ「登山」は止めときました。

ほのぼの写真の裏

昭和61(1986)年4月30日 木曽川尾張一宮石刀新木曽川

もしかすると再掲かもしれませんが、そうだとしたらご勘弁です。

国鉄の貨物列車と名鉄電車とのツーショット、そしてそこに親子の姿が。一見すると、躍動感あふれる列車の姿とは対照的に、電車を見せるために幼い息子を連れてきた若いお母さんの姿は、微笑ましい家族像に見えるかもしれません。確かに最初は花を摘んでいたりしてましたし。

ところがどっこい。

画面下端には三脚ケースとレンズの先っちょが写ってしまいましたが、これは後ろにも多くのカメラマンがいたので、少しかがんで撮影した結果です。そう、私が集団の先端に居て、両側と後方には何人にもカメラマンが並んでいました。「なんかいい雰囲気」と最初は思った人たちも、そのうち嫌な予感に囚われることになります。

この20分後に、C56 160牽引の記念列車が通過するのですが、前方の親子は一向に移動する気配がありません。普通、これだけのカメラを構えた集団を前にしたら、何か撮るのかな、撮影の邪魔になるのかしらと、場所を移動すると思うのですが、移動しないということは・・・。そう、若いお母さんは、バッグの中に隠し持っていたカメラをやおら取り出して構えだしたのです。ずばり、ママ鉄でした。流石にこうなると集団は黙っちゃいません。「そこ、邪魔」「どいて」相手が親子なので、よくある罵声こそ飛び交いませんでしたが、そうした声にようやく親子は、画角から外れる右側の方へ移動したのでした。

ここで疑問。もしも親子が単に列車を見に来ただけだったら画面の中に入れただろうか。私は、最初は入れたいと思っちょりました。でも、カメラを構えたので「ちょっと邪魔」と気持ちは変わりました。カメラを構えるという行為だけで、その存在が好ましいものから好ましからざるものへと変わった心境って、一体何なんでしょうね。

1丁パンタ、2丁パンタ

昭和60(1985)年2月2日 直江津駅

EF81 115

 

EF81 105

直江津駅は直流区間にある駅なので、交直流機であるEF81は115号機のように2基のパンタグラフを使用します。しかし105号機は1基しか使用していません。なんでかな~?直流機でも、重連運用では次位の機関車が1丁パンタというケースはありますね。

交流機であるEH800は当然ながら交流区間しか走行しませんが、2丁パンタで走行することがあります。電気にはからきし弱いので、そのあたりの理由、多分聞いても分からないでしょうけど、誰か解説してくれるとありがたいです。

キハ82 900番代

昭和52(1977)年3月12日 札幌駅 キハ82 901

 

昭和55(1980)年5月17日 札幌駅 キハ82 902

狭い窓がずらりと並び、その外観はまさにキロ82・・・と言いたいところですが、普通車のキハ82です。「はつかり」の電車化により余剰となったキハ80系の初期車ですが、そのうちキロ80 1がキハ82に改造されて901号となり、キロ80 5が902号となりました。2輌のみの存在で、なかなか出会う機会も少なかったですが、それだけに偶然目の当たりにすると、幸せな気分になれたものです。