ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

かつての桑園

かつて、と言ってもそんなに昔のことではなく、高架化される前の桑園ということです。

昭和53(1978)年5月14日 874M、121列車 ED76 506 桑園~札幌

この2年前に通っていた「札幌予備学院」(通称「札予備」)という予備校の裏で撮影したものです。左の建物がそれです。すぐ横の線路は入換用です。奥に桑園駅があり、後ろ側が札幌方です。いずれにしても今ならNGな撮影場所ですが、この頃は線路際での撮影は、よほど線路に接近していなければ黙認されていました。それだけ危険な撮影をするファンがほとんどいなかったという背景もあったでしょう。右側の貨車が停まっている横の建物は国鉄の倉庫です。他にも引き込み線が駅の東側の他に西側にも何本か伸びており、DD13やスイッチャーが入換に勤しんでおりました。

記憶はおぼろですが、この頃、28mmの広角レンズを購入して積極的に使っていたような気がします。それまでシグマのミニズーム35~70mmの画質の酷さで痛い目に遭っていましたので、こうしたメーカー純正のレンズ(ミノルタ)は安心して使えました。モノクロフィルムは自分で現像をしていましたが、温度や現像時間の管理は結構いい加減だったので、上部にはムラが出ています。シグマのレンズの酷さも、最初はいい加減な現像のせいだと思い込むほど、現像は真剣ではありませんでした。カメラやレンズの性能が良くても現像に不備があれば台無しです。

さて、この場所をグーグルマップ上で示すと

赤〇印が現在の桑園駅です。

道路の線形以外、当時をしのばせるものは何もありません。今の高架線の南側に地上時代の線路が走っておりました。余談ですが、昭和30年前後には、赤く示した撮影場所付近から北大構内へ伸びる線が大きく左回りで北へと向かって伸び、冬期間限定で石炭輸送列車が運転されておりました。

昭和23(1948)年4月22日 米軍撮影

親子鉄

平成11(1999)年5月29日 留萌駅

どなたか存じませんが、勝手に撮影させて頂きました。要請があれば削除します。

留萌線に復活した蒸機列車「SLすずらん号」です。小型の蒸機とはいえ、C11は私が鉄の道に入るきっかけとなった札沼線の貨物列車を牽引していた蒸機で、馴染み度は抜群。C62と比較する人もいるけれども、C62は留萌線を走れないし、比較する意味がない。4月の試運転からほぼ毎回、札幌から「通勤」して撮影していました。この当時はビデオだけで撮影していたのですが、この日はスチルカメラも持参していたようです。沿線では2台のビデオカメラを駆使し熱量高めの撮影でしたが、写真の方は肩の力を抜いてのスナップ気分。フィルムの残りを消費するためだったようで、この時の写真撮影はわずか4コマで、他の3コマはC11しか写していません。もっと他に多くのギャラリーが居たとは思いますが、瞬間的に「いいな」と思ってシャッターを切ったような気がします。思い出多き「SLすずらん号」はとっくに廃止され、朝ドラ「すずらん」主演の遠野凪子さんは亡くなり、留萌駅は廃止され、私はすっかり老けてと、あの良き時代はすっかり過去のものとなりにけり。

フィルムが滑る

フィルムカメラならではのトラブル。

昭和57(1982)年8月13日 西4丁目電停

パーフォレーションが浮いてしまい、空回りでもしてしまったのでしょうか。フィルムが十分に送られず、一部画像がダブってしまいました。こればかりは撮影時にどんなに注意しようと回避不能。ここまで酷いケースはフィルム数百本につき1回程度だったと思いますが、1度たりとも起きて欲しくありません。ただ、コマとコマの間隔は結構不揃いなので、このような空回りというか滑りは頻繁に起きていたようです。フィルムカメラでは他に二度撮り(1本のフィルムで二度撮りし、フィルム2本分の写真をダメにする)、フィルム全長に及ぶキズ(圧着版にホコリが付いていて最初のコマから最後のコマまで横キズが付く)、うっかり裏ブタを開けてフィルムをダメにする、極寒では巻き上げ時にフィルムをブチ切ってしまうなどのトラブルがありました。そして二度撮りと並んで最悪なのが、フィルムの入れ忘れ。これは精神的にかなりキツイです。凍り付きます。どれもこれもフィルムを使わないデジカメでは起こり得ないトラブルです。様々なトラブルを生んだフィルムカメラですが、デジカメにはない長所が1点だけあります。それは電池無しでも使えたということです。(電池が無いと使えないカメラもありましたが。)「写ルンです」はその典型でしょう。もっともこれはカメラではなく、レンズ付きフィルムという位置付けですけど。

テルハ

テルファとも呼ぶ、テルハクレーン。ホームからホームへ荷物を運搬するための設備で、かつての大きな駅には必ず設置されていました。過去記事でもちょっと触れたことがありましたね。ここで云う荷物とは、列車で輸送するための顧客の荷物や郵袋だけでなく、ホーム上の売店の商品や業務で使用する備品などのことです。今では後者になります。

昭和58(1983)年4月17日 岩見沢

 

昭和58(1983)年4月30日 函館駅

テルハには色々な形式、形状があるようですが、ここでは最初に見つけた2枚だけ挙げておきます。岩見沢駅のテルハですが、ホーム上の荷物積み込み場には壁がなく、簡単な囲いを設けているだけです。

 

昭和56(1981)年7月27日 横浜駅

一方、横浜駅には荷物の積み込み場らしきものはありますが、テルハがありません。ホームが改札口より高い位置にあるので、荷物は下へ下ろして、「地上」で台車を使い人力で運搬するというシステムだったようです。高架駅となった現在の札幌駅も同様で、各ホームには業務用のエレベーターが設置されており、コンコースを使って荷物の運搬を行っています。テルハや業務用エレベーターの写った写真や動画はもっと沢山ある筈なので、見つかり次第追加して参ります。

 

昭和59(1984)年9月22日 米沢駅(再掲)

ちょっと遠い。テルハを意識して撮影したことは一度もないので、まともに写っている写真はほとんどないと思います。

 

昭和60(1985)年3月31日 魚津駅

もっと遠い。

 

昭和57(1982)年1月2日 札幌駅

これもなかなか遠い。

 

昭和61(1986)年10月10日 札幌駅

近いけれど全体像が不明確です。跨線橋ではありません。

 

昭和57(1982)年6月26日 富山駅

クレーンの昇降設備が高くそびえているのがテルハの外観的特徴でしょうか。

駅ホームの鏡

洗面台には鏡が付いていましたが、それとは別にホームには鏡が設置されていました。身だしなみを整えるためだったのでしょうか。

昭和52(1977)年3月12日 札幌駅

鏡に映るのは4番ホームに停車中の、急行「利尻」を牽引するDD51。撮影場所は1番ホームのようです。鏡がどういう具合に設置されていたのか、トンと記憶にありません。鏡に反射したものを写して何が言いたいのだと突っ込まれそうですが、単に面白そうだから撮ってみただけ、でしょうね。

 

昭和56(1981)年7月11日 千葉駅

小型の台付き鏡。「駅や車内をきれいに」、ついでに自分の身だしなみも綺麗にといったところなのかも。私は身長は高い方ではありませんが、それでもこの高さはちょっと低めかも。主に女性が使うことを想定して設置したのでしょうか。子どもは使わないでしょうし。そんな鏡を使って、男の大人が記念撮影。鏡には霊が写るなんて話がありますが、こんな写真を撮影してきて、そういうものが写ったためしがありません。霊感ゼロなのかな。幽霊を見たいなどとは微塵も思いませんが。

ワンちゃんの見送り

過去に掲載した画像とは別な画像で。

下り「SLやまぐち号」の撮影を終え、鍋倉駅から列車で別の場所へ移動するところです。やってきたのは下りの543D、でも私が乗りたいのはこの後の上り540D。でもまあ、せっかくなので撮影でもしておこうとホームでカメラを構えていると・・・

どこからともなくワンちゃんが出現。首輪をしておらず野良犬なのかな?

こちらのカメラを気にする風でもなく、お行儀よく座り込むと列車をじっと見つめて、そのまま発車を見送っておりました。もしかして誰かがやってくるのをひたすら待っている忠犬ハチ公

昭和54(1979)年8月18日

札幌駅の水飲み場

今の札幌駅ではなく、地上駅時代の札幌駅の話。前回、苗穂駅水飲み場を話題にしてから、それでは札幌駅はどうだったのか。それがどうにも気になって、学生時代に撮影した写真を片っ端から探してみました。すると、何枚かにホーム上の水飲み場が写っていました。たまたま偶然というのがいささか残念ではありますが、無いよりはマシ。

昭和52(1977)年4月13日

これは鳩にピントが行ってます。札幌駅には実に多くの鳩が遊んでいました。その鳩たちの向こう側、2-3番ホームに、後ろ向きの男性のすぐ向こう側に水飲み場があります。鳩たちが水飲み場にこぼれた水を飲んでいたかは不明。

 

昭和52(1977)年10月1日

 

昭和53(1978)年6月1日(再掲かも)

上の2枚の画像は8-9番ホームの水飲み場札沼線はよく利用しましたが、水飲み場の記憶はありません。使ったことがなかったのでしょうね。当時はすでに自販機が各ホームのKIOSK横に設置されており、しかも水飲み場のすぐ近くに自販機があったので、一体どれだけ水飲み場は使われていたのでしょう。子どもの身長に合わせたかのような低い位置に蛇口があるので、案外、子どもたちは利用していたかもしれません。

 

この際なので、過去記事で使用したと思われる水飲み場や洗面所の画像が出てきたので、それもご覧いただきましょう。

昭和52(1977)年8月18日 平駅(現 いわき駅

こちらは札幌駅と異なり、コンクリート製?の水飲み場です。青森から急行「十和田2号」に乗車し、この駅で下車。東北ワイド周遊券を利用して東北地方を巡る旅でしたが、大井川鉄道のC11 227と希少なEF18に会いたかったので、ここで浜松までの往復乗車券を購入してから、急行「ときわ2号」で上野へ向かいました。それまでの待ち時間に、キハ45系が珍しくてシャッターを切りましたが、肝心の車輛の写り方は半端なく杜撰です。しかし、水飲み場の貴重な記録になったとは。この後、東京に出てどこかの駅のホームで水を飲んだのですが、その生ぬるさと不味さに驚いた記憶があります。喫茶店の水も不味かったです。今は東京の水道水は市販されるほど美味しいらしいですけど。

 

お次は洗面所です。洗面台のある一画を洗面所と呼んでいたと思います。

昭和54(1979)年8月18日 門司駅

画面、右端に洗面台が写っています。通勤時間帯にはまだ早いのでホームに人影はありませんが、夜行列車で早朝に到着した乗客たちは、まずはここで顔を洗ってついでに歯磨きまでして、さっぱりしてから次なる目的地へと向かっていたのでしょうね。

 

昭和52(1977)年8月24日 茨城交通(現 ひたちなか海浜鉄道) 那珂湊駅

私鉄の駅ホームにも洗面台らしきものはありました。女生徒の奥に見えるのがそれです。洗面台の様に見えますが鏡がありません。実質は水飲み場だったのでしょうか。昭和47(1972)年の全国版時刻表には、洗面所のある国鉄の駅が記載されていますが、その頃の道内時刻表や昭和50(1975)年の全国版時刻表に記載はありません。現在、水飲み場や洗面所のある駅はどれくらい残っているのでしょうね。