ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

美唄鉄道の4110

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年12月24日 美唄駅・美唄機関区にて

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4122

車歴は↓こちら。

4122 機関車データベース (形式4110) - デゴイチよく走る!

 

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4137

車歴は↓こちら。

4137 機関車データベース (形式4110) - デゴイチよく走る!

 

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4144

車歴は↓こちら。

4144 機関車データベース (形式4110) - デゴイチよく走る!

 

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2号機

三菱重工業神戸造船所=1 1919-00-00 S65tEt(1067)
車歴;1919-00-00製造→1919-11-00納入;三菱美唄鉄道(北海道);2→廃車→
保存;北海道美唄市「旧東明駅前」(沖田祐作著「機関車表」より)

 

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4号機

三菱重工業神戸造船所=10 1926-02-00 S65tEt(1067)
車歴;1926-02-00製造→納入;1926-04-00納入;三菱鉱業美唄鉄道(北海道);4→
廃車→保存;北海道江別市個人(沖田祐作著「機関車表」より)

 

4110形式は、奥羽本線板谷峠ならびに肥薩線(当時は鹿児島本線)の矢岳峠向けに開発された機関車で、ドイツ製の4100形式を参考に設計されました(足回りはまんまパクリ)。両峠には33.3‰という急勾配が存在し輸送上の隘路となっており、強力な機関車が要望されていました。5軸動輪という日本では初めての軸配置である4100形式は、経験豊富なドイツに設計・製造を依頼し、日本で組み立てました。結果、4100形式は期待に十分応えるだけの性能を発揮し、それを増備する形で日本製の4110形式が誕生。9600形式で培った技術を投入し4100形式を上回る性能に仕上がり、一次型30輌(4110~4139)、二次型9輌(4140~4148)の合計39輌が、全て川崎造船所で製造されました。一次型と二次型の外観上の違いはシリンダー部の高さと元空気ダメの位置でしょうか。

全機出揃った時点で人吉機関区には25輌、庭坂機関区には14輌が配備されてます。

昭和25(1950)年に全廃となりましたが、その一部は私鉄へ譲渡され、松尾鉱業鉄道には4115(後に4119に改番)、4116、4118(後に4117に改番)が、そして美唄鉄道では4122、4137、4142、4144が復帰を果たし、国鉄時代を彷彿とさせる活躍を見せてくれます。なお戦前、1435mmに改軌されて朝鮮へ渡ったのものとして4125、4130、4131、4133がありますが消息は不明です。

 

そして国鉄の4110形式に準じて製造されたのが美唄鉄道の2,3、4号機の3輌で、こちらは三菱造船所で製造されました。

更に台湾総督府鉄道でも同型のE300形式(終戦後EK900形式に改形式)が11輌あり、これらは汽車会社で製造されました。

勾配用機関車という特殊な形式で空転が少なく優秀な性能を誇ったことで、E10形式やD51形式に置き換えられるまで酷使されたようです。その後継機となったE10は4110を上回る性能を誇りながらも登場した時にはすでに無煙化の波が押し寄せていたために、十分な活躍をしないまま短命に終わったのとは対照的です。