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4122
車歴は↓こちら。
4122 機関車データベース (形式4110) - デゴイチよく走る!
画像追加(2024-09-10)
撮影日不明 美唄機関区
追加画像(2024-09-13)
撮影日不明 常盤台か
4137
車歴は↓こちら。
4137 機関車データベース (形式4110) - デゴイチよく走る!
4144
車歴は↓こちら。
4144 機関車データベース (形式4110) - デゴイチよく走る!
2号機
三菱重工業神戸造船所=1 1919-00-00 S65tEt(1067)
車歴;1919-00-00製造→1919-11-00納入;三菱美唄鉄道(北海道);2→廃車→
保存;北海道美唄市「旧東明駅前」(沖田祐作著「機関車表」より)
撮影日不明 東明駅
保存を前提に留置されていたのでしょうか。正面番号板が四角から円形に変わっています。
追加画像(2024-09-17)
撮影日不明 美唄機関区
正面番号板が四角から丸に換装された時代の姿です。現在保存されているのがこの姿になるのでしょう。
4号機
三菱重工業神戸造船所=10 1926-02-00 S65tEt(1067)
車歴;1926-02-00製造→納入;1926-04-00納入;三菱鉱業美唄鉄道(北海道);4→
廃車→保存;北海道江別市個人(沖田祐作著「機関車表」より)
画像追加(224-09-13)
撮影日 ・撮影場所不明
函館本線の電化に合わせたのか、「架線注意」札が設置されています。
向って右側のフロント手摺にはコの字型の握り棒が付いていますが、これは手摺を中心に回転するようです。
4110形式は、奥羽本線の板谷峠ならびに肥薩線(当時は鹿児島本線)の矢岳峠向けに開発された機関車で、ドイツ製の4100形式を参考に設計されました(足回りはまんまパクリ)。両峠には33.3‰という急勾配が存在し輸送上の隘路となっており、強力な機関車が要望されていました。5軸動輪という日本では初めての軸配置である4100形式は、経験豊富なドイツに設計・製造を依頼し、日本で組み立てました。結果、4100形式は期待に十分応えるだけの性能を発揮し、それを増備する形で日本製の4110形式が誕生。9600形式で培った技術を投入し4100形式を上回る性能に仕上がり、一次型30輌(4110~4139)、二次型9輌(4140~4148)の合計39輌が、全て川崎造船所で製造されました。一次型と二次型の外観上の違いはシリンダー部の高さと元空気ダメの位置でしょうか。
全機出揃った時点で人吉機関区には25輌、庭坂機関区には14輌が配備されてます。
昭和25(1950)年に全廃となりましたが、その一部は私鉄へ譲渡され、松尾鉱業鉄道には4115(後に4119に改番)、4116、4118(後に4117に改番)が、そして美唄鉄道では4122、4137、4142、4144が復帰を果たし、国鉄時代を彷彿とさせる活躍を見せてくれます。なお戦前、1435mmに改軌されて朝鮮へ渡ったのものとして4125、4130、4131、4133がありますが消息は不明です。
そして国鉄の4110形式に準じて製造されたのが美唄鉄道の2,3、4号機の3輌で、こちらは三菱造船所で製造されました。
更に台湾総督府鉄道でも同型のE300形式(終戦後EK900形式に改形式)が11輌あり、これらは汽車会社で製造されました。
勾配用機関車という特殊な形式で空転が少なく優秀な性能を誇ったことで、E10形式やD51形式に置き換えられるまで酷使されたようです。その後継機となったE10は4110を上回る性能を誇りながらも登場した時にはすでに無煙化の波が押し寄せていたために、十分な活躍をしないまま短命に終わったのとは対照的です。