ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

乗り継ぎまでの間に

上野幌へ行くのに、列車乗り換えの時間にチャチャっと撮影しました。
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09:53 1841列車(手稲発札幌行き)
4番線に停車中のキハ56系は急行「ちとせ3号」(室蘭行き)でしょう。

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09:55 122列車(旭川発函館行き)
長距離鈍行列車に関してたびたび話題に上げている122列車です。旭川発06:16、函館到着は20:04で、通過駅は張碓だけです。「北斗星」並の乗車時間を、寝台特急券なしで満喫できます。札幌駅では10分間の停車。小樽駅では機関車の交換と、上り急行「ニセコ」に道を譲るため26分間の停車です。

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10:00 L特急「いしかり3号」の発車と同時にED76 501の機回しかと思いきや、メモには単1841列車とあります。当時のダイヤを見ると、苗穂駅に留置するようです。札幌駅に置けたと思うのですが、その後の運用上の都合だったのでしょうか。さて、1番線に放置された客車の運命やいかに。実は1841列車は上り急行「ニセコ」の回送を兼ねておりました。つまりグリーン車付き普通列車でしたが、開放していたかどうかは分かりません。機回ししないで機関車はどうしたか。ちゃんと桑園方にも最初から機関車は連結されていました。つまりプッシュプルで手稲からやってきたのでした。



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0番線に留置していた3両の80系を、特急「北斗2号」に増結しました。この3両は下り「おおぞら1号」の函館~札幌運用(札幌着08:50)の付属編成だったと思います。このようにDD13は札幌駅で旅客車の他に、桑園方の荷物ホームでは荷物車や貨車の入換も行っていました。

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10:27 特急「北斗2号」
2分遅れで発車?大勢の見送りを受けた人が乗車していたようです。エライさんの転勤だったのでしょうか。

客貨ともに機関車が全国各地で活躍していた時代、牽引機と被牽引車とは別々の運用だったので、運用を考える担当者は大変だったことでしょう。しかも貨車となるとヤードで組成換えを行っていたわけですから、1両1両を一体どのように管理していたのでしょうね。旅客車だって、増結や分割を行うのは日常的にあったわけなので、車両運用の複雑さは現在の比ではなかったことでしょう。

昭和53(1978)年9月12日