matuno kura が撮影した画像ではないので、転載はご遠慮下さい。
撮影日不明 南大夕張駅
大夕張鉄道、ウィキによればこの当時の正式名称は「三菱石炭鉱業大夕張鉄道線」と云い、このNO.2は同じ三菱傘下にある美唄鉄道から転入した機関車で、国鉄キューロクのコピーになります。画像では確認し辛いですが、律義にも番号板には「NO.2」の下に「形式9600」と表記されています。1枚目の画像は小高い位置にある駅舎付近から撮影したものです。
下記に示す車歴表によれば、もともとは今のサハリンにあった南樺太炭鉱鉄道が発注した機関車だったようで、南樺太炭鉱鉄道もまた三菱の傘下にありました。
車歴(機関車表 沖田祐作著より)
川崎車両兵庫工場:No.2393
1941-01-25製造→納入予定;帝国燃料興業内幌線22号機(樺太庁)~入線せず
1941-04-xx入;三菱鉱業美唄鉄道5号機
1959-04-xx借入;三菱大夕張No.15
1959-11-29返却
1960-04-xx借入;三菱石炭鉱業鉄道大夕張線No.15
1960-11-xx返却
1969-06-30入;三菱石炭鉱業鉄道大夕張線No.2
1974-01-15廃車→現地にて解体
車歴表にある「帝国燃料興業」はまだ内幌(ないほろ)線とは無縁であり、昭和19(1941年)当時、南樺太炭鉱鉄道は三菱石炭油化工業株式会社の鉄道線へと改称した頃で、帝国燃料興業が昭和20(1945)年3月に三菱石炭油化工業を合併してことで帝国燃料興業内幌線となります。いずれにしてもNO.2は樺太へ行かぬまま、同じ三菱系であった美唄鉄道に引き取られたということになります。因みに会社名にある「油化」とは石炭から人造石油を生成することです。戦前、国際的に孤立した日本は石油の輸入がストップされた際、石炭から人造石油を作る研究がなされ、留萌などに製造工場が建設されました。しかしコスト的に商業ベースには乗らず、また戦後、石油の輸入が再開されたことで研究・製造は中断されてしまいました。
さて、美唄鉄道時代の画像です。(再掲)
昭和43(1968)年 美唄機関区
5号機からNO.2になって煙室戸ハンドルが十字タイプとなり除煙板が装着され、公式側の元空気溜めが前方へと移設されています。前端梁の様子やランボード上の給油ポンプ箱の形状にも違いが見られます。そのまま使用せず改造した背景には何か理由があったのでしょうかね。