ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

C50 154

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

f:id:railway-photo:20210315071637j:plain昭和43(1968)年7月1日 小山機関区

この時代は化粧煙突。後に取り付けられた除煙板は、あまりカッコいいとは思えない代物です。

 

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昭和45(1970)年9月24日 糸崎機関区

パイプ煙突にされていますが、何やら傘状のものを載せているように見えます。まだ除煙板を装備しています。

 

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昭和47(1972)年8月25日 亀山機関区
除煙板が撤去されています。煙突の上の傘もなくなっています。ゼブラ模様はかすれてしまったのかな。フロントデッキの向かって右側の手摺が傾いているのは相変わらずです。

車歴は↓こちら。

C50154 機関車データベース (形式C50) - デゴイチよく走る!

樺太庁鉄道には4輌のC50が在籍し、戦時中に国鉄編入されて155~158号機(←C50 1~C50 4←8650~8653)とされました。後期タイプの軸配置で寒冷地仕様の密閉キャブ構造。しかし本土の土を踏むことなく終戦を迎えソ連に接収。その後の消息は不明となっています。従って、国鉄C50というと、この154号機が最終ナンバーと見做されています。また同規模の8620と異なり、私鉄に譲渡されたり私鉄向けのコピー機が製造されることもありませんでした。

154号機の糸崎区時代はわずか3カ月にも満たず、最終配置区である亀山機関区へ転属となります。そこで除煙板を取り外され、入換仕業で最後の奉公。梅小路での動態保存は叶いませんでしたが、亀山市で長い眠りに就いています。