ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

晩生内から豊ヶ岡へ

この当時、まだ秘境駅などという言葉はなく、札沼線の北側で撮影する物好きはほとんどおりませんでした。(石狩川橋梁はメジャーでしたが。)私自身、新十津川まで乗車したことはあったものの、撮影の方は貨物列車狙いで国鉄時代に中小屋と石狩当別を1度ずつ訪れたきりで、ちゃんと定期の気動車を撮影したことはありませんでした。身近な路線なのにないがしろにしてきた、そんな負い目みたいな気持ちがあったのかもしれません。初めてまともに撮影したのでした。

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10:05 札的→晩生内 726D

地図を見ながら撮影場所を探しますが、できれば石狩平野がちゃんと分かるように撮りたい・・・と考えたような気がします、多分。ちょっと高い足場を見つました。ストリートビューを見ると、農家さんちの裏山です。おそらく道路から用水路伝いに上がったのでしょう。今は木が茂っており、それらしき足場は見当たりません。

 

この後、国道275号線を南下します。列車は1時間半以上も来ないので、ひたすら歩くだけです。途中、札比内駅に立ち寄り、駅舎の写真を撮っていますが、それから先の記憶はありません。写真ではいきなり豊ヶ岡駅です。

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11:43~45 豊ヶ岡駅 723D

地図で読んだ通り、駅周辺には人家のない寂しい駅でした。でもこの駅にはどうやって来たのでしょう。晩生内豊ヶ岡間は線路で7km、国道だとそれ以上になるので、まあまあ速足で歩いたのでしょうけれども、線路を歩いた記憶もなければ国道を歩いた記憶もなし。自分の記憶力の乏しさをつくづく感じます。

この後は、裏道を通って石狩月形へ向かいました。これは何となく記憶に残っています。

それにしても、なんでこんな場所に駅を作ったのでしょう。という疑問が湧いても調べることもなく時間だけがどんどん過ぎてゆき、その理由が分かったのはついこの間のことでした。月形炭鉱からの石炭積み出しに関係していたということだけ記しておきましょう。ググるとすぐに分かるので。

 

昭和62(1987)年6月8日