物心ついた時、ここではC11が貨物列車を引いて走っていました。近所の年上の友達と一緒に、その姿をカメラに収めたのが私の鉄人生の始まりでした。マジで。
しかしその期間も3年ほどで、千歳線の新線開業と共に苗穂機関区から蒸気機関車の配置はなくなり、所属していた札沼線用のC11たちはお役目御免となってしまいました。
C11の後に札沼線へ入ってきたのがDD13でした。JRには1両も引き継がれませんでしたが、昭和50年頃には全国のちょっとした駅では入換している姿をよく目にするほど、極くありふれた存在でした。SL終焉の頃、当時の鉄道雑誌には「蒸気機関車を廃止するな!」などという感情的な投稿が普通に掲載されており、それだけにDLはSLファンからは目の敵にされる存在でした。特にDD51などは本線を走っていただけにイヤというほど憎しみの目を向けられていたことでしょう。
その点DD13は、本線走行もしてはいましたが、地味に地方で貨物列車を引くか駅で入換をするのがメインでしたので、血走ったSLファンから憎悪の視線を浴びることはあまりなかったように思います。
SL亡き後、ぽっかりと心に穴の開いた私は、仕方なく札沼線の貨物列車を撮っていました。もちろん先頭に立つのはクソ面白くもないDD13です。予備校へ通うのに利用していた桑園駅では、いつもDD13が入換をしていました。苗穂工場に行けばいつの間にかDD11が消えて、DD13が検査車両を入換していました。
もうDD13ばっかりじゃん!
そんなDD13も、清水港線では混合または客車列車を牽引して、ちょっとした話題になっておりました。温暖な清水市(現 静岡市清水区)では真冬でもコートが要りません。運転距離は短く、利用客のほとんどはやんちゃな汗臭い高校生ばっかりでしたから、真冬でも暖房要らずだったので、DD13で無問題。暖房どころか、私が乗車した時には車内アナウンスもありませんでした。入換用・ローカル貨物用のDD13が、貨物列車のついでに旅客も引いちゃろ、ということだったのでしょう。実際、貨物列車は1日に数往復走っていましたが、旅客はたったの1往復だけでした。
また、私鉄や臨港鉄道にもDD13やDD13タイプの機関車がかなり活躍していました。
そんな風にDD13は絡みつくように日本中どこにでもいたのですが、JRにはただの1両も継承されませんでした。「へっ?」ってな感じです。
こうなると人間(っちゅうか、お前がだろ!と自分で突っ込む)とは勝手なもので、何だかDD13が不憫に思われてくるものです。清水港線が廃止される頃には鉄ちゃんもぎょうさん沿線に溢れましたが、それにしたってDD13を惜しんでいたわけじゃなし。DD51開発の基礎になった機関車であり、SLを全廃に追いやるなど、国鉄の無煙化に対してその功績はとても大きかったのに、地味一筋だったように感じます。
昭和59年頃、新鶴見操車場跡には、廃車になった膨大な貨車と共にDD13の屍が連なっていました。その頃、貨物列車の輸送方式が変更され多くの操車場や貨物列車が廃止となり、大量に機関車が余剰廃車されていたので、DD13だけが特別だったわけではありません。しかし形式まるごと消えたというのはDD13だけでした。DD13の後はDE10やDE11が引き継ぎましたが、DE11すらも大量に廃車になっていました。
まあそんなふうに思い出でお膳立てをしたところでDD13の画像でも載せておきますら。
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![イメージ 11](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/r/railway-photo/20190805/20190805191711.jpg)
ところで、「鉄道ピクトリアル」の1965年5月号を開くと、今後のディーゼル機関車の増備計画として、「DD52」や「DD22」といった形式が紹介されています。
DD52とは、DD51の貨物専用機版であり、DD22はDD20の量産型でDD13の置き換え用だったようです。(DD21は入換もできるラッセル車)
DD52はDD51の800番代となりましたし、DD22は、DD20そのものが結果を残せぬまま試作で終わってしまい、DD13の後継機はDE10系の開発に軸を移したのでDD22は実現しませんでした。
おしまい