ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

信州への旅

今朝も05:50に起きて東の空を見たら、下弦の月の右下に、明けの明星が輝いていました。しかし朝の支度をしている15分ほどの間に雲が覆い隠してしまい、写真を撮ることはできませんでした。以上、報告終わり。

信州ワイド周遊券を使っての旅だったと思います。それも撮影よりも乗車する方をメインとした、いわゆる乗り鉄の旅だったと。なので写真は車窓や駅でのものばかり。あ、それと車内アナウンスの生録もダラダラと記録しておりました。

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早朝に清水を発ち静岡からは「こだま331号」で名古屋に出て、そこからL特急「しなの5号」に乗車しました。初めて乗る381系振子電車。曲線区間で車体が振り子のように傾くわけですが、その乗り心地は人によっては乗り物酔いを引き起こすため、車内にはゲロ袋が用意されていたように思います。乗り物には弱い方なので、それを使うタイミングを見計らっていましたが、案外大丈夫で拍子抜けでした。

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途中、上りの「しなの2号」とのすれ違い。

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どこかの駅では荷物列車とすれ違い。

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雰囲気ある駅舎についシャッターを切りました。

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あっという間に大糸線白馬駅、終点です。繁忙期にはこの先、南小谷まで延長運転されることもありました。大糸線南小谷を境に、南側の電化区間と北側の非電化区間の二つの顔を持ち、ローカル色豊かな非電化区間に対して、電化区間には「しなの」の他に、新宿からの「あずさ」や急行「アルプス」も入線するなど、単線ながらも幹線の色合いを呈していました。

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待ち時間わずか4分で、340Mに乗車して松本へ引き返します。

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お先に失礼とばかりに白馬駅を後にします。実はこの時初めて、381系の顔を撮影したのでした。因みに白馬(はくば)駅の由来となった「白馬岳」は本来は「しろうまだけ」と読みますが、もともとは「代馬岳」と表していたことによります。

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青木湖でしょうか。犬神家の一族

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草生した広い構内。どこの駅でしょうか。貨物扱いがなくなると、たちまち廃墟のようになってしまいます。

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信濃松川駅。構内踏切の表示器が邪魔ですが、駅舎はいい雰囲気です。

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13:48頃 L特急「あずさ7号」と列車交換です。向こうに見えるホームが気になります。貨物扱いをしていた頃の名残でしょうか。

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はい、さようなら。

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14:12 穂高駅。松本からの信濃大町行き235Mと行き違いです。ホームがカーブしているので、車掌の安全確認のためのモニターが設置されています。都心の大きな駅では、直線ホームでも長編成のために見通しが利かないので、モニターが設置されています。業界では有名なシバソク製だったかと。

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14:41 この島内駅もカーブしたホームが特徴的です。南小谷行きの337Mと行き違いです。私の乗車している340Mにはグリーン車が付いています。時刻表にはグリーン車も指定席車も表示がないので、もしかしたら料金不要で乗れたのでしょうか。

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車掌同士が手を上げて、はいお疲れ様です。

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14:46 そうこうしているうちに、やはりあっという間に終点の松本駅です。ED60は、新性能直流電気機関車のトップバッターで、大糸線の貨物列車を牽引していました。顔が先輩格であるED70に似ています。

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塩嶺ルートとは岡谷~塩尻間の短絡線です。塩嶺トンネルをぶち抜いて建設され、このわずか10日前に開業したばかりでした。

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更に乗車は続きます。急行「天竜5号」で篠ノ井へ向かいます。この列車は、中央本線 茅野(ちの)発2525Mと飯田線 飯田発3525Mの2本の快速列車が塩尻駅で合体したもので、2525Mは塩嶺ルートを使って塩尻に到着しました。篠ノ井へ行こうと思ったのは、冠着姨捨の車窓を是非この目で見ておきたかったからなのですが、生憎の空模様だったせいか写真に撮っていなければ記憶にも残っていません。余程見通しが悪かったのでしょう。
この1年前に完成したという3代目駅舎だそうです。駅前で出迎える恐竜たちは「ジュラシック・パーク」の宣伝用ではなく、「茶臼山恐竜公園」に因んだものです。とはいえ、この地にTレックストリケラトプスが生息していたという事実はありません。恐竜の骨も出ていません。

この後、またまた松本へ戻り、そこから「あずさ22号」で甲府へ向かい、この日の乗り鉄は終了でした。雨がちの天候でもあり、ひたすら列車に乗って日がな一日を過ごすという贅沢を存分に味わったのでした。

昭和58(1983)年7月15日